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なぜ卑弥呼は『記紀』に登場しないのか?

お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。

日本古代史最大の知名度を誇る卑弥呼の最大の謎
なぜ…卑弥呼は中国の歴史書にしか登場しないのか?
日本の正史である『記紀』が卑弥呼を隠している理由について大考察していきます。

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卑弥呼とは



邪馬台国の女王…卑弥呼といえば、歴史が苦手な人でも知っている日本古代史上最大の知名度を誇る女性です。

しかし卑弥呼ほど、謎に包まれ、考古学者や歴史学者を悩ませている人物も少ないでしょう。

なぜなら、卑弥呼とは日本の正史である『日本書紀』や『古事記』には登場せず、中国の歴史書にしか登場しないからでしょう。

卑弥呼の記載がある中国の歴史書といえば、『魏志倭人伝』です。

『魏志倭人伝』には、「邪馬台国。ここが女王の都とするところ」とし、

「その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼という。」と記載がされています。

そして卑弥呼の特徴として、「彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。」としています。

一般的に多くの人が、”卑弥呼は邪馬台国の女王”として君臨したと思っている方が多いのではないでしょうか?

しかし実は、『魏志倭人伝』には”邪馬台国の女王”とは明確に書かれているわけではありません。

『魏志倭人伝』に書かれていることは、邪馬台国は”女王の都とするところ”であり、邪馬台国は倭の女王の卑弥呼が居住し統治する都という位置づけなのです。

ほかにも239年に「親魏倭王」として倭王に任命されて以来、卑弥呼は「倭の女王」であり必ずしも「邪馬台国女王」とは書かれていないのです。

倭というのが、日本の昔の呼び名であることは周知のことでしょう。
では卑弥呼が倭国の王ならば、日本の正史である『日本書紀』や『古事記』に卑弥呼が登場してもおかしくないと思いますが、なぜ卑弥呼は『記紀』に登場しないのでしょうか?

ヒミコが卑弥呼ではなかった


まず考えられるのが『魏志倭人伝』に記される”卑弥呼”が、人物名ではないのではないか?ということです。

ヒミコを人物名ではなく、日の神に仕える女性である”日の巫女”であると考える説です。

たしかに卑弥呼は「鬼道に事え」とあるようにシャーマンとしての宗教的な性格を持ち合わせていました。

”卑弥呼”というのはあくまでも中国の歴史書に記された女王の名前であり、当時の日本に漢字が普及していなかったことを考えると倭国側の使者である難升米が「我々の国の王は日の巫女である」と言ったことに対して中国:魏の側が卑しいという漢字を当てて卑弥呼とし、役職名であった”日の巫女”が人物名のように伝わった、と考えることができます。

「この国を治めているのは、日を祀る巫女職の女性であって、卑弥呼という名前の特定の人物はいない」のであれば、『記紀』に卑弥呼という名前を持つ人物が登場しないことも理解できます。

しかしこの考え方には、ひとつ大きな矛盾が存在します。

それは次に登場する、壹与の存在です。
『魏志倭人伝』には、「卑弥呼が死んだ。倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。そこでまた卑弥呼の宗女である年十三の壹与を立てて王とし、国中がようやく治まった。」と記しています。

壹与は女性であり個人名です。
もしヒミコが役職名であり”日の巫女”とするならば、「壹与があとを継ぎ卑弥呼になった」という記載になるはずですが、そうなっていません。
中国:魏側が”日の巫女”を”ヒミコ”と個人名として勘違いし、「ヒミコという人物のあとを継いだのは壹与です。」と認識した可能性もあります。

しかしそうなると、なぜ壹与という個人名はしっかりと伝わっているにもかかわらず、ヒミコだけはちゃんと伝わらなかったのか?という疑問も生まれます。

それに『記紀』は卑弥呼だけでなく、壹与や邪馬台国すら登場させていません。
これはなぜなのでしょうか?

邪馬台国はヤマト政権と関係ない勢力だった

日本の正史である『日本書紀』や『古事記』が卑弥呼を隠す理由…それは卑弥呼は天皇家とは全く関係のない人物だからではないでしょうか?

そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではありません。

むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者すなわち天皇の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものです。

なので記紀編纂者たちは、ヤマト王権の統治に関係あることは記すけど、それ以外のことは自らの正史に記す必要はないのです。

なので『記紀』に卑弥呼や邪馬台国が登場しないということは、邪馬台国がのちのヤマト政権につながっていないことを示唆しているのです。

箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない


邪馬台国が畿内にあったと主張する人たちは、奈良県の纏向遺跡にある箸墓古墳が卑弥呼の墓と比定しています。

箸墓古墳とは、日本初の巨大前方後円墳とされているお墓です。全長約280mを誇ります。

ヤマト王権は、前方後円墳という古墳祭祀を継承した王権であり、前方後円墳はヤマト王権のレガリアです。

ヤマト王権が前方後円墳をレガリアとする王権で、その最初となる箸墓古墳の被葬者はヤマト王権の初代王かそれに準ずる人物であると考えた方が自然です。

現在宮内庁は、箸墓古墳の被葬者は倭迹迹日百襲姫命としており、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であると考える説もあります。

倭迹迹日百襲姫命は巫女的要素がある女性でありその特徴は卑弥呼と一致していますが、卑弥呼は未婚なのに対し倭迹迹日百襲姫命は大物主と結婚しています。

一応、箸墓古墳の築造時期は3世紀中葉~後葉にかけてとされているので、卑弥呼が死んだとされる248年頃ということとはある程度一致しますが、卑弥呼の墓は直径百余歩(約144m)と言われていますが、全長約280mの箸墓古墳では大きすぎます。

もし卑弥呼が箸墓古墳の被葬者ならば、ヤマト王権を成立させた重要人物と考えられ、そのような人物をヤマト王権の正統性を主張するための書物である『記紀』が記さないはずはありません。

倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼なのかどうかは、まだ研究の必要があります。

しかし倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳と記録されている卑弥呼の墓の特徴が合わないことや、未婚の卑弥呼に対して倭迹迹日百襲姫命が結婚していることなど2人の特徴も合わない点が多くあります。

そのため日本初の巨大前方後円墳である箸墓古墳は卑弥呼の墓であり、前方後円墳に祀られているから卑弥呼もヤマト王権の重要人物だ!と考えるのは、時期尚早だと思われます。

色んな女性に擬されるヒミコ

『記紀』に卑弥呼が登場しない!という話をしていると、ただ単純に記紀編纂者は『魏志倭人伝』を知らなかっただけではないか?と思う人も多いかもしれません。

しかし記紀の編纂者は、『魏志倭人伝』の存在も知ってましたし、『魏志倭人伝』を読んでいたと思われます。

なのでもちろん3世紀の日本に、邪馬台国が存在し卑弥呼と記載される女王がいたことは知っていたでしょう。

なぜ記紀の編纂者が『魏志倭人伝』を読み、邪馬台国や卑弥呼がいたことを知っていたか?というと、神功皇后や推古天皇など女性の登場人物に卑弥呼を擬していると思われる記載があるからです。

神功皇后とは、第14代仲哀天皇の皇后であり三韓征伐をした女性として有名です。

卑弥呼も神功皇后も、神憑りして神の意志を伝えることができたという巫女的な性格があったことは一致しています。

さらに『日本書紀』にみられる神功紀には、『魏志』倭人伝が引用されており、
”魏の皇帝である明帝の景初3年(239)6月に、倭(日本)の女王が大夫である難斗米(難升米)らを朝鮮半島の帯方郡へ遣わし、さらに、皇帝への会見を求めてきたとある。そこで、帯方郡の太守であった劉夏は、難斗米ら使節一行を魏の都へ送った”と記載されています。

景初3年(239)という年は、卑弥呼が魏へ使節を派遣した年として有名です。

このように『日本書紀』には、『魏志倭人伝』を引用し卑弥呼を神功皇后に重ね合わせるような記載が多いことから、江戸時代まで卑弥呼と神功皇后を同一視する考えが定着していました。

しかし神功皇后がしたことは三韓征伐という朝鮮半島への侵攻ですが、卑弥呼が朝鮮半島を攻めた記録はありません。

神功皇后がいつの時代の人物で実在したのか?ということは置いておいて、わざわざ卑弥呼が魏へ使節を派遣した年に合わせるように神功皇后の記載をしていることから考えると『記紀』の編纂者が魏志倭人伝を知らなかったというのは考えにくいでしょう。

天照大神=卑弥呼もオカシイ


卑弥呼の正体について、天照大神と同一とみる人も多いでしょう。

天照大神といえば、天皇家の皇祖神です。
そのため『記紀』に描かれる天照大神は、主役であり、高天原の主宰神であり、世界を照明する力を持っています。
この天照大神の子孫だから、天皇家は日本を統治する正統性があるのです。

その天照大神と卑弥呼が同一と考えられる理由は、卑弥呼が”日の巫女”であると考え、太陽の女神である天照大神と同じ属性を持っているからです。

それに天照大神の有名なエピローグである、天照大神がお隠れになられて世の中が真っ暗になったという天岩戸隠れ神話は、卑弥呼が没した前後の、247年3月24日に、中国で日食のあったことが、『三国志』と『晋書(しんしょ)』に記されていることから、卑弥呼が没したことの神話的表現が天岩戸隠れ神話であるとも考えられています。

では天照大神が卑弥呼とするならば、なぜわざわざ神功皇后に擬する必要があるのでしょうか?

記紀は、天皇家中心のヤマト王権の正統性を示すための歴史書であり、その中で天照大神は皇祖神として位置づけられています。
もし卑弥呼が天照大神と同一なら、わざわざほかの人物に擬するようなことはする必要はなく、”天照大神は卑弥呼と呼ばれていた”と書けばよかったのではないでしょうか?

なぜいろんな女性に擬したのか?



卑弥呼が『記紀』の中でその名前は登場はしないが、いろいろな記述の中に神功皇后や倭迹迹日百襲姫命や天照大神のように、卑弥呼的要素を持った人物として登場していることはわかりました。

ではなぜ、記紀編纂者はわざわざ卑弥呼に擬したような女性を登場させのでしょうか?

ここは私の考察になりますが、倭王や倭国王を引き継ぎ、ヤマト王権が卑弥呼がいたころから倭国を統治しているようにアピールしたかったのではないか?

『日本書紀』というのは、海外主に中国に「倭国であった日本は大王家(のちの天皇家)が昔から治めています」ということをアピールしています。

なので魏によって倭王と認められた卑弥呼も、我らヤマト王権の王も同じ倭王なので、3世紀末から天皇家は倭王の家柄であり、卑弥呼の倭王も引き継いでいる家系。ということをアピールしたかったのではないでしょうか?

卑弥呼が天皇の系譜にいるにみせたかったのです。

しかし事実は魏志倭人伝に書かれる卑弥呼は、ヤマト王権とは別の勢力体の王だったのでそのまま卑弥呼がヤマト王権の王として組み込んでしまうと矛盾が生じてしまいます。

その矛盾とは例えば、3世紀後半にヤマト王権に卑弥呼にあつあたる女性の王が存在しないといけませんが、3世紀末の天皇の系譜に女王は存在しなかったり、卑弥呼の墓の記載とヤマト王権のレガリアである前方後円墳とでは合わないことなどです。

記紀編纂者たちは、卑弥呼とは直接関係はないが3世紀末に卑弥呼が倭王であったことだけは利用したかったのではないでしょうか?

ヤマト王権が3世紀末から倭王であったかのようにするため、ヤマト王権に関係のある女性に卑弥呼っぽさを与えて、中国の歴史書でもある『魏志倭人伝』にも登場する倭王卑弥呼のころから我々ヤマト王権が倭王でしたよ。とアピールしたのが『日本書紀』がもつひとつの一面なのかもしれません。

ヤマト王権が”倭王”や”倭国王”にこだわる理由は、倭の五王からもわかります。

倭の五王も卑弥呼と同じように中国に朝貢し、”倭国王”として認められましたが、自らも「倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武」として名乗っています。

日本国内の統治のためにも、中国側に倭国を統べるのは、我々大王家だ!とアピールし認めてもらうことは大切で「倭国王」や「倭王」という称号を受け継ぐことは重要なのです。

日本が独立国であることをアピールすることを編纂の目的のひとつとされた『日本書紀』において、卑弥呼や倭の五王が中国に朝貢していた事実は都合が悪い事実です。

なので『日本書紀』は、倭の五王がどの天皇であるかは記載していません。
そして真実の天皇家の系譜との大きな矛盾日本の独立性に問題がない程度にするため、朝貢した事実のある卑弥呼を無理やりにでも組み込むことはせず、卑弥呼エッセンスをいろんな女性に被せるだけにしたのかもしれません。

まとめ:”日の巫女”はたくさんいた


いかがだったでしょうか?
今回は、記紀が卑弥呼を隠す理由は卑弥呼がヤマト王権と無関係の人物だったからという考察をさせていただきました。

古くからその土地を治めているというのはそれだけで権威ですし、統治の正統性をアピールする材料になります。

そうなるとより古い倭王の称号を持つ卑弥呼は、違う勢力の王だったとしても上手く天皇の系譜に埋め込みたいと記紀の編纂者は考えたのかもしれません。

私自身は、卑弥呼が”日の巫女”という役職名であったという考え方には賛成です。

そして古代日本には力のある”日の巫女”が各地に存在したのでしょう。
その中で魏志倭人伝の卑弥呼を特定するには、やはり邪馬台国の場所を確定する必要があるので、邪馬台国が見つからない限り魏志倭人伝に登場する卑弥呼が誰なのか?も特定できないでしょう。

今日はここらへんでお別れです。
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ばいばい!

この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史沼チャンネル】の動画を、テキストにしたものです。












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