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「メルトショック」の結実、あるいは初音ミクの分裂→?

こんにちは。ボカロが好きです。ボカロはいいぞ。

※今回は学級会的な内容に言及しますので、嫌いな人は見ないでください

今回は知っている人は知っていると思いますが、テレビ番組の「ボーカロイド」表記に起因する批判が、なかなか(過去と比較して)興味深かったので思ったことを書いていこうと思います。

発端の説明

私は見ていなかったのですが、カラオケ歌うま王的な番組で「命に嫌われている/ボーカロイド」と表記されていたのがきっかけです。概ね「カンザキイオリを紹介しろよ」「じゃあ例えば『Cry baby/人間』と書くのか?」と言った感じの意見が出ています

正直、この手の話は千本桜がテレビで紹介されまくっていた2012-2013や、それ以前のボカロの流行時から何十回と繰り返されてきたような文句であり、まあいつもの事だなあと思います。

他のジャンルにおいても、バラエティ番組などの紹介にその界隈の人がいちゃもんを入れるのはしょっちゅう観測されるので、どこも一緒なんだろうなと思います。

むしろ、毎回毎回新鮮な文句が出てくるのはボカロのメイン層が上手く世代交代できてる証拠なのかなあとまで思ってしまうのですが、それでもこの記事を書いているのは、その文句の内容が大きく過去と変わったなと思ったからです。

つまり、この学級会の話をしたいという訳ではなく、それによって見えてきた価値観の変容の話です。

私の見解

そうはいってもお前はどう思ってるんだという話ではあるので述べておくと、「違和感は確かにあるが、それは界隈内だけの話であり、怒るほどのことではないよね」というのが私の意見です。以下に理由を述べます。


そもそもあってる

まず前提として、「命に嫌われている。/ボーカロイド」は間違っていません

「Cry Baby/人間」だって、普通そうは書かれないだけで間違えているわけではありません

大昔、テレビで千本桜が取り上げられた際に「千本桜はAKBの曲なのに……」的なツイートをしたAKBファン(千本桜のミュージカルにAKBが出演していたので間違えたのでしょう)がやばいほどの大炎上をしたことがありましたが、今回はそもそも間違えていない、という点で大きく過去の事例と異なります。


ボーカロイドは集合的な概念だろ

次に「ボーカロイドは集合なのでおかしいせめて初音ミクだろ」というのですが、これはそのとおりであり確かにおかしいのですが、おかしいと思うのは内部の人であって、マジョリティはそうではないということです。そして、これも大前提として、マスメディアは名前の通りマスを対象としたものであり、マジョリティ向けの表記を行うのが当然です。

例を挙げましょう。この画像を見てあなたはどう思いますか?

画像は私が作成しました。

「あっこの極太の明朝体、エヴァンゲリオンのパロディだ」と思いませんでしたか?

あってるけど違います。

この文字は「極太の明朝体」などという名前ではありません。「フォントワークス」という会社の「佐藤俊泰」さんが制作した「マティス」というフォントの「EB」というウェイト(太さ)です。

もっと言えば、エヴァンゲリオンでもTVアニメか新劇場版かで異なります。TVアニメでは「OCFフォントフォーマット」が使われているため、字形がJIS90に準拠したものになっており、例えば「使」の最終画の右払いに墨溜め筆抑えがあります。一方、新劇場版では「OTFフォントフォーマット」が使われていてこちらはAdobe-Japanの字形となっているため墨溜め筆抑えがありません。(※追記:墨溜まりの用法が違うとのことで修正しました。すみません)

画像はフォントワークスのこちらのページより。

極太明朝体と思うだけならまだしも、巷にはマティスEBを使わずに例えばOfficeを買えばついてくる「HGS明朝E」でエヴァのパロディをしたポスターが溢れています。

HGS明朝Eによる「使徒、襲来」パロディ

これは先の例では完全にグレーを通り越して「千本桜はAKBの曲」の領域であり、個人的には気持ち悪さすら感じます。「マティスEB以外でエヴァのパロディをするな協会」でも立ち上げましょうか。

いま、めんどくさって思いませんでしたか? そういうことです

一般的にはVOCALOIDとCeVIOとNEUTRINOとUTAUと……という区別どころか、「初音ミク=VOCALOID」と思っていてもおかしくありません(少なくとも母はそう思っていました)。あなたが明朝体を集合名詞として使っていないように。

そしてマジョリティがそう思っているのであれば、マスメディアは当然その表記を行います。

それを正すのもメディアの仕事だろと言われればたしかにそうですが、当該番組はバラエティのカラオケ企画の一表記です。そこで「初音ミク=VOCALOID」ではなく「初音ミク⊂VOCALOID」ということを説明するのは現実的ではありません。流石に求め過ぎというものでしょう。しかも先に述べたように包含関係からして、間違いではありませんから。

むしろ、黎明期に「アッコにおまかせ」で半ば馬鹿にされたように紹介され大炎上したこと(亞北ネルはこの炎上の中で生まれました)や、千本桜の先の話からすれば、「ボーカロイド」ってちゃんと書いてくれるんだ~~~!! と感動するレベルなのですが、どうでしょう?

カンザキイオリとかけ

今回メインで取り上げたいのはこれです。この声がめちゃくちゃ多いことに正直驚いています。これについては次章で考えていきます。

さて、ここでも大事なのはボカロを聞いている人とマジョリティでの価値観の齟齬です。すなわち、作詞作曲者という存在にどれだけ注目しているか、ということです。

ここでも例にしてあげれば、「残酷な天使のテーゼ」を知っている人を100としたとき、歌手が「高橋洋子」であると即答できる人、あるいは作曲/作詞者が「佐藤英敏/及川眠子」と即答できる人はどれくらいいるでしょうか。

あるいは、「運動会のアノ曲」を聞いたことのある人のうち、どれくらいが「オッフェンバック」が作曲したオペレッタ「地獄のオルフェ」序曲「天国と地獄」の「第三部」であると知ってるでしょうか。

アイドルなどの特殊なマーケティングを除けば、一般に音楽は楽曲がもっとも膾炙し、ついで歌手が、ついで作詞作曲者が、さらについで収録演奏者が、という順になるでしょう。

そして、その順番が逆転しているのはボカロという文化の特異的な部分です。これこそがいわゆる「メルトショック」による最も大きな変化と言われています。

すなわち、「初音ミク」が歌っているということより「カンザキイオリ」が作ったということが重視されるのはボカロ文化独特の価値観構造であり、それを見誤って一般的な書き方を適用したとしても仕方がないと思います。

「命に嫌われている。/カンザキイオリ feat. 初音ミク」と書くのが最も全方位に当たり障りないとは思いますが、画面幅や他の曲の表記との揺れ等なにか事情があったのでしょう。

もちろん、ボカロにおいても、一般のJpopにおいても、作詞作曲者や演奏家にももっと光が当たるべきというのは私も思いますし、これからそうなればいいなと思いますが、だからといって現状を顧みれば怒るほどのことでもないと思います。Nextoneなどを通じて使用料はカンザキイオリさんに支払われているでしょうしね。

ボカロPという価値の変化

さて、今一度念を押しておきたいのは、私はこの「番組」に対して、あるいは「番組に物申している人」に対して物申したいのではありません。先に述べたように、間違えてはいないが最善ではないというのは確かですので、ボカロのみならずJpopの作詞作曲者などにも光が当たるように変わっていくべきとは思いますし、そのために文句を言う人がいてもそれは自由です。

今回は話したいメインは「カンザキイオリとかけ」という意見の多さです。

千本桜の頃にもこういった紹介のされ方、それによる文句は呆れるほど見ましたが、ほとんどが「初音ミクの紹介をしろ」という言われ方だったように記憶しています。

それがいつの間にか製作者である「カンザキイオリの紹介をしろ」という声が多くなっているのは驚きました。つい先日、まふまふさんが紅白で命に嫌われているを歌唱することが発表されたときも「カンザキイオリ」という名前のほうが「初音ミク」という名前より賛否どちらにしても多く見られたように思います。

つまるところ、ボカロPのカリスマ化・アーティスト化が進み、同時に相対的に初音ミクの透明化、楽器化が進んでいるということではないでしょうか。

これは、「メルトショック」の一つの終着地点に近づきつつあるということ、(前の記事を読んでくれた方向けに言えば)不動の動者<初音ミク>に認識が近づきつつあるということ、楽器としての初音ミクがそのキャラクター性すらも破却してその完成形に至ろうとしているその先端にいるとも言えるかもしれません。

それは、ある意味では良いことであると思います。

メルトショック以前、ニコニコ動画のボカロシーンは量子のスープのような混沌とした場で、集合知的なクリエイターが初音ミクを面白くするという動機で集まっており、製作者個々人に注目するということは今より少なかったといいます。

しかし、ワンカップPが「ワンカップP」という名をつけられて「ボカロP」という個人が与えられました。(この点はメルトショックよりむしろアイドルマスターの功績と言えるでしょう)

その後メルトショックを経て、初音ミクを起点にクリエイターとしての個々人に注目する在り方が進んできました。

だからこそ、ヨルシカが、YOASOBIが、ヒトリエが、そして米津玄師が今ここにいます。

とはいえ千本桜のときはそうでなかったようにそれでも今ほどではなかったと思います。

次いでこの潮流が大きく推し進められたのは「カゲロウプロジェクト」の登場でしょう。即ち、「カゲプロ」を創っている/創れるのはじんさんただ一人しかいないので、必然的に「じん(自然の敵P)」という名前が重要になります。
2012、2013年のじん無双を見ればそのことは理解されると思います。

そういった歴史的なボカロの潮流がついにここに至って「初音ミク」の名前すら不要に成ったという点で、結実に近づいていると言えるかもしれません。

しかし、同時に不安も覚えます。

つまり、アーティストとしてのボカロPに注目する比重が重くなればなるほど、ボーカロイドである必然性は薄まっていきます。

だからこそ、ボカロPから離れたり同時並行でセルフプロデュースのバンドなどの音楽活動をしたり自分で歌うボカロPが増えてきたのだと思います。

それはそれで「ボカロを踏み台にしている」とかの文句がともすれば先の番組に文句を言っているのと同じく言ったりするので、知らずのうちに自己矛盾を孕むことになります。(個人的にはこの踏み台論についても「そもそも踏み台など存在しない」と思っていますが割愛します)

ボーカロイドが透明化していけばいくほど、ボーカロイドの意義を再定義する必要に迫られています。

あるいは、結局のところ、カリスマ的なボカロPというオアシスで楽しんでいるだけで、ボーカロイドという「場」は依然として砂の惑星なのではないか――あるいはより砂漠化が広がっているのではないか、というよからぬ考えまで浮かんでしまいます。


これからのボーカロイド文化

しかし私は悲観ばかりしているわけでもありません。

それは、この「ボーカロイドの透明化」と全く逆の潮流である「ボーカロイドのキャラクター化」もまた同時に大きく盛り上がりを見せているからです。

それこそプロジェクトセカイです。
あるいはマジカルミライなどもそうです。

歴史というのは残酷な天使のテーゼアンチテーゼ貴様のぶつかり合いの結果起きるアウフヘーベンによって新たな価値=ジンテーゼに持ち上げれることで進んでいく、とヘーゲルは述べました。

プロセカが2020年に始まり、現在大きく盛り上がっているのは奇跡的なタイミングだったと思います。

この二つの流れの先にどのような歴史が待っているのかは私には判りません。

!!!!正義拗らせ 自身を時代の御者だと 自惚れるならば
原点で 分身を殲滅→流行を 征すはボクだと教えてあげる!!!!
「「「思い通りにならない そんな歌姫は必要ない」」」と
撃ち返される凶弾は ボクを葬るだろう

「初音ミクの分裂→破壊」cosMo@暴走P feat. 初音ミク

あまり想像したくはありませんがこの流れが分断を生んでしまえば、「楽器としての初音ミク」と「キャラクターとしての初音ミク」が、あるいはその双方のファンが分裂し、破壊に至ってしまうかもしれません。

しかしながら、破壊ではなくアウフヘーベンに至る手がかりもまた既に提示されているようにも思います。

それを一番感じたのが先日行われた「MIKU BREAK」の公演です。

この公演では楽器としての初音ミク、キャラクターとしての初音ミクがどちらも人の演者と対等にパフォーマンスを繰り広げました。この先にこそ新たなる初音ミクの在り方の手がかりがあるように思います。


未来のことは誰にも判りませんが、振り返った時に「楽しかった」と心から思えるような、そういう現在を歩み続けて文化の歴史を創っていきたいですし、創られることを願っています。

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