閉じた心としての城:シャーリィ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』

 この正月休みに、シャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』(創元推理文庫)を読んだ。

 私は、ミステリーを上手く読めない人間で、あっと驚くトリックとか驚異の大どんでん返しとかそういう類のものは、どこか人工的で、白々しく感じられてしまう。私が文学に求めているものは多分、書くことのなかに現れる、人間の心の闇や謎であって、――ここでとりあえず〈心の闇や謎〉と書いたものは、普通に言われるところの闇や謎ではなく、つまり過去のトラウマとか矛盾した心性とか抑えがたい暗い欲望とかではなくて、……例えば、書かれたものと書き手との間にはいくばくかの距離が存在していると思われるが、ではそこにはいったい何が存在しているのかと問いを立てたとき、改めて意識されるような闇や謎である(こんな風に下手に書くことしかできないことは、自分自身己の知性に深い闇を感じるが、それはまた別種の闇だろう)。ものすごく言い方を変えれば、私が文学に求めるのは書き手の〈切羽詰まった感じ〉なのだが、ミステリー作品の優劣はむしろ書き手がどれほど余裕たっぷりに書くことができるかということが競われているようにさえ思われる。

 ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』は、たぶんミステリではない、……いや、私はミステリの読者ではないから、そんなことはわかりようもないが、少なくとも謎解き型のミステリではないし、探偵も存在しない。ミステリ的な要素を残しながら、探究するものを人間の心の中に移したという意味では、アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』に似ているところがあったが、クリスティーには探偵小説的ミステリを離れても、真実の暴露という物語全体の方向性がまだ残っていた。ジャクスンではむしろ逆に、真実は完璧には暴露されないか、あるいは真実が完璧に暴露されたとしても、なお理解することができないまま残る人間の心の存在を物語は暴露する。〈城〉に続く私道は暴力的に開放され、子供たちは屋敷のすぐ前までやってくる。しかし、メリキャットとコンスタンスの心は、そのような仕方では通行可能にならないし、私たちは彼女たちの心を最後まで理解できない――たぶん、死が私たちを分かつことになっても、私たちは分かり合うことができない。そうした難攻不落の〈城〉を書くことにこの小説におけるジャクスンの興味は存していて、それは隣人の唾棄すべき悪意を書くこととあわせて、彼女の文章をかなりの崖際まで追い詰め、〈切羽詰まった〉ものを感じさせるまでになっている、――少なくとも、語り手であるメリキャットは〈狂っている〉ので、彼女の報告する出来事は信用ならないのではないかという意見が読み手の中から出てくるまでには、……そしてジャクスンはそんな風な文章を書くことで、メリキャットの心の通行不可能性を書いている。

 城について書いた小説のなかには例えばカフカの『城』があって、Das Schlossという原題(ドイツ語)は「閉じるschließen」という動詞と関係して閉ざされたものの暗喩になっている。すなわち、主人公Kのような異邦人、職業の名前だけを持ち内実をもたない(本当に私たちの仕事はそんな風な詐欺まがいのものばかりだが)社会の疎外者から、城の内部は閉ざされている。カフカの城は砦というより宮殿か屋敷のような、低い姿のきらきら光る建物だった。『ずっとお城で暮らしてる』の〈城〉も同じように、比喩であり、メリキャットたちの住む…

[未了]

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