「よだかの星」について

先日の大学入学共通テストの国語の問題に、宮沢賢治の「よだかの星」についての文章が出てきて、色々と考えた。

醜い鳥のよだかは他の鳥からいじめられ、悲しみに打ちひしがれるうちに空を飛びながら自分が虫を食べていることにすら罪悪感を覚えるようになった。生きることに絶望したよだかは力尽きるまで空の彼方を目指し飛び、最後は星になって夜空に輝いた。

全文をしっかり読んだことはないが、だいたいそんな話のようだ。

虫を食べるという鳥にとってごく当たり前のことに対し、何故よだかは罪悪感を覚えたのだろうか。

共通テストの中でも同じようなことが問われていた。

私が「よだかの星」をざっと読んだところ、よだかはこの世界をかなり虚しいものとして捉えているように感じた。

何かにつけて″反出生主義″というワードを使うのは私も嫌なのだが、このよだかはまさに反出生主義者な気がする。

生きるために食べる、食べるということは他の生き物の命を奪うことである。

この当たり前の仕組みがよだかには受け入れられなかったのだと思う。

最近、Twitterでプロフィール欄に反出生、反生殖と書いているアカウントをよく見かける。そういった人々のうち、果たして何人がよだかの本当の心情に共感できるだろうか。

反出生主義という立場の根本的な出発点は、「苦痛を感じ得る存在をこの世に生み出してはならない」という考え方だと思う。つまり、純粋な反出生主義者であるならば、人間だけでなく他の生物の生殖も否定すべきなのだ。

反出生主義の“反出生“の係る対象が人間だけだと考えている人は、よだかに対する共感の度合いは低いだろう。そのような人々は日々肉を食べ、動物実験を経て製造されるシャンプーで頭を洗っていることと思う。動物を利用しながら回っている社会の中で生活するということは、多くの動物に苦痛を与え、利用した分だけまた新たに殖やすということに他ならない。

それに対し、よだかは生粋の反出生主義者だと思う。自分が生きながらえることで、【生まれる→食う→生きる(=つらい)→食われる(=痛い)】という自然のサイクルを支えてしまうくらいなら、力尽きるまで飛んで星になってしまいたいと考えたのだろう。

もちろん私は前者である。以前は私もよだかと同じように、この世から全ての苦痛や悲しみを無くしたいと願う純粋なる反出生主義者だと思っていたし、多分それに憧れていたのだと思うが、自分を客観視してみると、18年も命を断つことなく(今日もマクドナルドでハンバーガーとチキンナゲットを食べました。)生きてしまっている時点で前者なのだと自覚した。今からでも後者のような純粋な反出生主義者に転向すれば良いじゃないかと言われるかもしれないが、その為には今の快適な生活を全て捨てて星になる以外ないのだ。そのような険しすぎる道を歩むことは到底私には出来ない。

Twitterなどのプロフィール欄に反出生、反生殖主義を掲げている方も、よだかと同じ生き方(死に方)をしていく覚悟がないのであればその文言をプロフィール欄から外した方がよいのではなかろうか。

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