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劣等感の正体

「劣等感」

人よりも劣っている。

私はこのままではいけないと責め苛まれる状態。

私は劣等感を、身体中にまとって生きていた。

頭から爪先まで、全てが欠陥で、

ふさわしくない。

毎日、数えきれないほど劣等感に苛まれた。

どうして私はこんなにダメなんだろう

重い、痛い、しんどい。

できることなら、すべて脱ぎ捨ててしまいたい。

私が目撃した劣等感の正体を、ここに記す。

劣等感のなりたち

劣等感のタネは、生まれたばかりの頃からごく身近に存在していた。

母がよく言った「兄はぼーっとしてるけど、あんたはしっかりしてるわ」

他人との比較、そしてジャッジ・優劣をつける。

それこそが、劣等感のタネだった。

母は時に、

従兄弟と私を比べ、優劣をつけた

時にはクラスメイト。時にはテレビの中の子役。

ありとあらゆる人、モノと、ジャッジされた。それがごく当たり前になっていく。

さまざまな比較、ジャッジメントをされる中で、

他人と自分を比較する、優劣をつけるということを自然と学んでいった。

初めのうちは、母から一方的にされるだけだったジャッジメント。

成長するにつれて、自分自身に対してするようになる。

幼稚園の頃は、兄と自分を比較した。

兄の存在は好都合だった。

二つ年上の兄はおっとりしていて、私の方が何かと要領よくこなせた。

兄と比較しては、優越感を感じ、

優越感を感じるたび、安心できた。

成長の中で

成長していくにつれ、比較対象が拡大していく。

雑誌の中のモデル。

クラスメイトの可愛いあの子。

完成された(ように写し出された)人やモノと、自分を比べた。当然、自分は劣の領域から出ることができない。

特に私の場合は、虐待による強いストレスから、体にさまざまな異変が現れていた。

それが劣等感を加速させることになる。

目に映るもの全てが、自分を劣等な存在であると証明しているようだった。

例えば、とても毛深いこと。

小学生の頃から男子よりも毛深く、よく男子にからかわれた。

大人の視点からすると、毛くらい処理すればいいと簡単に思えるけど、

子どもだった私にはそれはできなかった。

暑くても長袖を着たり、人目に触れないように常に気を張っていた。

授業より何より、自分の体を見られないようにするので必死だった。

プールの時間は最悪だった。

いかに一番後ろに並ぶか?人目につかないか?ばかり考えていた。

発表会の劇の練習で、膝丈のスカートを履いたことがあった。

練習が終わり、教室を移動する時になっても

足の毛を見られたくなくて、一人、立ち上がることが出来ない。

そして、膝歩きで移動するという不思議な行動に出た。それしかもう、選択肢がなかった。

通り過ぎるクラスメイトから、何やってるの?と聞かれたけれど、

「毛深いのが恥ずかしくて立ち上がれない。」なんて、死んでもいえなかった。

消えてしまいたかった。

その時、膝で歩いた時に床で擦って火傷をした後が、25年以上経っても足に残っている。

必死に生きていた証。

しばらくすると、悩みの中に、

癖毛、ニキビ、ほくろ

さらに、胸が全く成長しないという悩みも加わる。

誰にも相談できず、自分の中で深刻さを増していく。

私は人よりたくさんの面で劣っている。

ひとりの少女は、そう深く自分へのイメージを刻んでいった。

優越感と劣等感

高校に上がると、色々なことが解決する。

毛は、処理することを学んだ。

癖毛に対しては、縮毛矯正をかけた。

相変わらず、成長しない胸と、背中のニキビには悩まされていたけれど、

一見するとわからない。

メイクを覚えて、髪を巻いたり、染めたりもして、

男子からモテ始めたのもこの頃。

劣等感から一転、優越感を感じることが多くなった。

私はみんなよりモテる。

それを心の拠り所にしていく。

友達の好きな人にちょっかいをかけてみたり、

人気のある先輩と付き合ったり、

劣等感が心の空洞に復讐するかのように、誰かに優越することばかりを欲した。

当然、満たされるわけもない。

次から次へと相手を変えては、周りから白い目で見られる。

でも、やめられなかった。

とにかく優れていたい。見えない敵と戦っていた。

心の平穏とは程遠いところで。

転じて、闇

二十歳くらいから、さまざまな精神疾患が現れてきた。

今まで我慢や無理を敷いて来た私の心も体も、ついに悲鳴をあげたのだった。

今までできていたことができなくなる。

頭にモヤがかかったように、言葉も出てこない。

劣等感の沼にずぶずぶと沈んでいった。

目を覚ましてから、寝るまでの間、1秒たりとも自分を肯定できない。

責め続ける。

そんな日々を過ごした。あれはまさに地獄だ。

大きな気付き

波はあれど、10年以上を精神疾患と共に過ごした私は、擦り切れた雑巾のようだった。

道端に転がる石ですら、羨ましかった。

電車に乗ると、目に映る人全てが自分よりも優れた存在に感じた。

ここにいるのが申し訳なかった。

あらゆる存在の最底辺に、自分はいる。

強烈な劣等感で、おかしくなりそう。

いっそのこと、狂ってしまいたかった。

30歳を過ぎた頃、どうにかしないとと思い、カウンセリングに通うようになる。

自分自身の置かれてきた環境をひとつ、ひとつ見つめていく。

すると、精神的な虐待を受けていたことがわかった。

はじめは理解できなかった。

いい両親に育ててもらって、私は幸せくらいに思っていたから。

でも本当は全然違った。

いい両親だと思わなければ生きていけなかった

いい親だと感じなければ、罰せられた

だけだった。

うちの実家は、子どもにとって、あまりにも劣悪な環境で、救いの手もない。

そんな時子どもは、現実を歪めて認識することで、なんとか適応しようとする。

虐待する親を愛情深い親だと、認識を歪めた。

その代償として、

なんの問題もない自分自身を、どうしようもない劣等な存在だと認識するようになった。

黒いものを白と認識してしまったから、

白いものを黒ということにするしかなかった。

過去の私を振り返ると、

とても優しくて、純粋で、愛情深くて、我慢強くて、

大きな愛の塊みたいな存在だった。

この素晴らしい存在が、

劣っている?ダメ?どうしようもない?

そんな道理、どこにもない。

私は、親を守るために現実を歪め、その代償として自分の価値をまるっと、差し出しただけだった。

このからくりに気付いた時、

過去の自分を責めたり、恥じたりすることはなくなった。

あの時も、どんな時も、自分は精一杯やっていた。

そんな風に、自分への見方が変わった。

大きな変革だった。

解放へ

カウンセリングが進むにつれて、自分の価値を取り戻していった。

私はここにいていいのだ、と少しずつ思えるようになった。

でも相変わらず、誰と比べ一喜一憂する癖は残っていた。

どうも歯痒くて、違和感があった。

それが、スピリチュアルな世界を知り始めてから、一気に解放に向かう。

そもそも、私たちが「現実」と呼ぶこのリアリティは、幻想に過ぎない。

幻想だけど、存在する。

存在するのだけど、幻想。

VRをイメージするとわかりやすいかもしれない。

ゴーグルをつけて、ゲームをスタートすると、

たしかに目の前にリアリティある映像が広がる。

空を飛んだり、どこかから落ちたり、ジェットコースターに乗ったりできる。

だけどこれは、ゲームの中の空間で起きていることであり、幻想だ。

幻想だけど、たしかに体験している。

そんな感じ。

めちゃくちゃリアルなゲームを、経験してるに過ぎない。

だから、コントローラーを持ってあーでもないこーでもないと言いながらプレイしている自分がいる。

それが本当の自分。

本当の自分から見た時、

私たちが他人と自分を比べて優劣をつけて、一喜一憂していることに、どういう意味があるか?と考えてみると、

比較コマンドと、ジャッジコマンドを連発して、ゲームしているだけ。

そう、所詮はお遊び。

にもかかわらず、自分の存在価値を託して、一世一代の賭けをするような気持ちになってしまう。

負け組、勝ち組なんて概念も生まれる。

そうやって白黒をつけて、享楽にふけっている。

この世のしくみをより深く理解するようになっていくと、

比較も、ジャッジも、本当に意味のないことだとわかる。

象とキリンを比較して、争っているようなもの。

赤と青に優劣をつけて、罵り合っているようなもの。

それ自体に意味はないけど、スリルや一瞬の満足感もあるから、

それだけで今世を終える人がいてもおかしくないくらい。

なんだけど、

そもそも比較やジャッジという概念自体から距離を置いてみると、

本当の心の平穏が訪れると知った。

染み付いた考え方

私たちは一日中ジャッジしてる。

優劣をつけている。

朝起きて、テレビをつける。

綺麗な服を着た女子アナが爽やかに笑っている。

頭がよくて、美しくて、性格もよさそう。

それに比べて、私は?

鏡を見ると、目が半分も空いてないスッピンの自分。最近顎にお肉がついてきた。

綺麗にならなきゃ。ダイエットしなきゃ。

さて、お弁当を作ろう。

インスタを覗くと、手間暇かけたお弁当がずらり。

何時起きして作ってるの?

あのママさんモデル、子どものお世話もしながらこんな綺麗なお弁当を作って、すごい…

それに比べて私は…

冷食だらけで、味気のないお弁当。

もっとちゃんとしなきゃ。

…そんな感じで

一日中、数えきれない程ジャッジしてる。

放った一言、何気ない行動、目線の一つでさえ、

監視して、ジャッジして、罰してる。

自分自身に対してそんな眼差しを向けていたら、当然他人に対してもそうなる。

言い回しを少し間違えただけで、指摘する。馬鹿にする。

名前を間違っただけで、テレビ局に電話する。

電車が1分遅れると、駅員に怒鳴り散らす。

人身事故の遅延を知り、舌打ちをする。

誰かがミスをすると、寄ってたかって非難する。

それは、いつも自分にやってるから。

自分に罵声を浴びせて、手錠をはめて小さな檻に閉じ込めているから、

人にも同じことができる。

それくらいやらなきゃ、わからないだろう?という発想になる。

むしろこれは、お前のためにやってるんだ

という発想にすらなる。

でもやはり、どこまでいっても、

比較も、ジャッジも、ゲームの一設定であって、それをしている限り、心の安寧は訪れない。

だからといって、

今、批判やジャッジしてる人を下に見るわけじゃない。

人それぞれ、気付きまでの様々な道のりがあって、学びたいことが違うから。

今は充分に比較やジャッジを味わいたい。それによる学びを得たい。

そういう人たちの自由意志もまた、大切で。

私もずっと味わってきた。浸ってきた。

ずいぶん苦い味だったけど、それでも味わい尽くしたかった。

そしてようやく、もういいかなって思えた。

水着の砂

幼い頃から染み付いた考え方の癖は、

水着の中に入り込んだ砂のように思う。

洗濯しても、びっちりと繊維の中に入り込んで出てこない。

私は綺麗になりました!みたいな澄ました顔をしても、よくみるとたくさん詰まってる。

伸ばしてはらって、ようやく少し、パラパラと落ちて。

何度も何度も繰り返しても、まだ詰まっていて。

これ、綺麗になるの?って、途方もなく感じる。

縦横斜め、いろんな方向に引っ張ってみる。その度に違う場所から砂が出てくる。

なんだよ、キリがないじゃんって悪態つきたくなる。

でも、この砂ってほんとうは敵じゃない。厄介者でもない。

ただ、海でいっぱい遊んだ証だよね。

だから最近は、まぁ、砂が詰まったままでもいいかって

たまに気が向いたら引っ張って、綺麗にしてあげようと思っている。

劣等感の正体。

私が見た、劣等感の正体。

周囲から、比較、ジャッジされることで、タネができた。

幼少期に黒いものを白と思ったことで、認知の歪みが起きた。

それによって、なんの問題もない自分を、ダメだ(劣)と決めつけた。

そしてそもそも、比較とジャッジは壮大な遊びだった。

強い劣等感を持ちながら生きると、

人間はどういう気持ちになるか?

どんな状態になるか?という、実験でもあった。

全ては、学びを得るためだった。

それが、大きな視点から見た時の、劣等感の正体。

学びというか、遊びというか、自作自演というか。

なんだよ、そういうことかい!って、気が抜けちゃうけど。

いやいや、「劣等感が感情に与える影響及び行動特性の変動」

みたいなデータ、大いにをとれたんじゃないかな。

うん、がんばったよね…

それもこれも、これがリアルだと思って入り込んでプレイしていた私の頑張りによるものだよね。

おつかれさま、自分。

こんなにがんばってきた自分を責める私は、もういない。

あ、近いうちに、「罪悪感の正体」も書きたいなぁ。

気分が乗る限り。

ちなみに、劣等感と優越感は、同じものだった。

比較とジャッジの先に、光を当てれば優越感になり、光が照らされていないときには劣等感になる。

比較とジャッジの概念から離れると、優越感も感じなくなる。

優越することも、卑下するすることもなく、ただそこに「在る」ことが出来る。

さまざまな気付きをもたらしてくれたジャッジメントゲームは、これにておしまい。

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