「私をくいとめて」とコールドケース3「壁の女たちへ」を観て思ったこと

映画やドラマを観て、自分に投影しがちなのは年齢のせいかもしれない。

20年以上前に31歳おひとりさまだった私の生活はみつ子とは全く異なるものだったが、自分が選んだ生活に納得し満足すると同時に、世間でいう普通に対する漠然とした不安な感情を行ったり来たりする毎日だったように思う。

「私だって会社で簡単に今のミニお局におさまったわけじゃない」

気楽そうに過ごす日々の間にエアポケットのように訪れる焦りの気分、やらかした記憶。親友に打ち明けて解放することもあれば、心の一番下に押し込んで二度と出さない感情もある。それこそ記憶を抹消して(いや、全く消えていないんだけどね)

ふとした瞬間に浮上する閉じ込めた記憶。受けたセクハラ、上手く対処したつもりだった自分への嫌悪感、味方であるはずの同性に対する素直になれない自分の矮小さ。あぁ、なんて自分はしょうもない人間なんだ。心で呟き、時に声に出して落ち込む。大きく潤んだ女優の瞳にやり場のない怒りが現れた時、自分の中の記憶が泡立っている音が聞こえるようだった。

映画に集中したい気持ちと、今すぐSNSで感情を垂れ流したい気持ちで、映画館の座席でずっとそわそわしていた。まさかこの歳になってこんなに気持ちが掻き乱されると思っていなかった。

そして私は、この映画を4回観に行った。

この4回の間に、最近お気に入りの赤楚衛二くん目当てでWOWOWの「コールドケース3」を視聴。あの可愛い赤楚くんが何ともいやらしいレイプ犯を演じきっていた。(あまりのクズっぷりに驚き、よくぞあそこまで解釈して演じたと、ある意味惚れ直したwww)

で、コールドケース(第6話「壁の女たちへ」)。これは大学のアイドル的存在だった男が、自分の人気に乗じて次々と女たちを誘い、レイプし、何者かに殺されたという事件の物語。女たちの中には、相談した友人の言葉に傷付いた者、人知れず堕胎した者、大学を辞めた者、そして自ら命を絶った者もいた。それぞれにとって忘れることの出来ない忌まわしい記憶を封印して今を生きている。

思い出したくない。

思い出すという行動こそが、再び傷を開くから。そもそも傷なんて塞がっていないのかもしれない。いつまでもジュクジュクと湿っている傷口が見えないように蓋をしているだけで、一向に治らない。だからもう、傷のことは忘れてしまいたいんだ。

レイプ事件と職場のセクハラを同列にするのは如何なものか?どうだろう、一緒にしちゃだめ?傷はいつまでも残り続けている。

今でこそ多様性が謳われ、セクハラ・パワハラが問題視され、NO(否)はあくまでNO(否)であることが認められるのようになったが(完全に、とはいかないが)、女なんて押し倒してやっちゃったらOKって風潮がまかり通った時代はつい最近だし、今だってそんな表現あるよね。前出のドラマにも「部屋に入れたんだから合意」という認識が男にあった。恐らく彼が犯した女の中には「自分も悪い」と口をつぐんだままの者は他にもいたのではないかと思う。

夜二人きりになったら、キスされても仕方ない?酒の席で肩を抱かれたくらいで、大騒ぎしちゃいけない?ホテルに行こうと誘われたら、断り方も気を遣わなきゃいけない?いい大人は空気くらい読まなくちゃいけない?

空気って、何?

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