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せずにすむとありがたいのですが

 COVID-19を受けて(と言うにはあまりに理不尽な方針転換で)会社の労働環境が壊滅的なものとなり、この半年でもともと40名ほどしかいなかった社員のうち14名が自主退職した。社員の35%がこんなにも一気に退職したのだから、普通なら社長が経営責任を問われて退くべきところなのだが、勤め先はオーナー企業の悪いところを煮詰めて固めて腐らせたみたいな企業なので、そういうことにもならない。
 退職者のうち87%が私と同部署で働く者で、うち課長クラスが3人辞めた。有能な人から順に辞めた。
 辞職者の仕事はすべて在職者に振り分けられるわけで、給与額は激減したのに仕事量は2倍3倍に膨れ上がった。終業後の夜を費やしても終わらない。作業のために土日に出社しても対価は一切支払われない。社員は誰もが悲鳴をあげているが、阿鼻叫喚のその声が上の者に届くことはない。

 「パソコンが一人一台無いんですよ……」
 隣島の営業部の女性が誰かと電話で話しているのが背後から聞こえる。絶望しつつも、諦めた声。誇張ではなく、本当に無い。

 感染症は関係ない。入社時から、この会社には十分な数のパソコンがなかった。入社後、研修のために本社を訪ねて絶句した。「次、使わせてください」と声をかけ、上司が使い終わるのを数十分待ってからメールをチェックするのだ。上司が外出した隙にようやくパソコンから印刷した契約書に手書きで書き込んでいる西暦が2010年代であることが荒唐無稽すぎて、笑うことすらできなかった。
 抱えている案件の大きさに免じて(免じて!)私は個人使用のパソコンの社費購入を許されたが、それも上からはふてぶてしく厚かましい請求だと思われており、風当たりはいまだに強い(らしい。上との直接の接触を回避しているので真相はわからないが、「そう思われてるよ」と社への忠誠心の強い先輩がご親切にわざわざ教えてくれた。「態度が悪いと思われてるよ。アタシもう庇いきれないからね」。先輩が私を貶めているところは散々見てきたが、庇っているところは見たことがない)。
 曰く、本来ならば、自費で購入したものを会社に持ち込んで使うのが正当であるらしい。
 「本来ならば」? 「正当」?

 「……一人一台無いんですよ、だからデータ処理が間に合わなくて……」
 営業部の女性の弱々しい声を聞いて、斜め向かいに座る同世代同部署の同僚と目を合わせる。
 「パソコンが一人一台無いってさあ」同僚が苦笑しながら言う、「これ、どういう状況なんだろね?」

 私も苦笑する。「もう勤めて4年目になるけど、未だに異常事態すぎてしばしば意識にのぼるもんね。頭の電光掲示板に【この会社にはパソコンが一人一台ありません!】って赤文字で流れるの。どうしてさ、すればかならず状況が改善するとわかっていることを、こんなにも頑なに行わないんだろう?」
 「とにかく何かをすること、何かを変えることが嫌なんだろうなと思うんだよ。何もしたくない。何も動かしたくない。何の責任も取りたくない。経営者の資格がないよね」
 「それって鬱の人がお風呂に入れないやつじゃん……気持ちはわからないでもないけど、かなりやばい段階じゃない?」
 「そういうことなんじゃない? この会社は、もう」

 離職者が残していった厄介な企画の膨大なメールタスクを機械的に処理しながら半笑いで交わす私たちの会話を盗み聞きして、営業部の中年男性が妙に高らかな笑い声をあげている。営業部にはまだ笑える余裕があるんだろな、と思う。そうだよな、そっちには何の皺寄せもいってないもんな。
 男性はいつも我々の会話を拾い聞いてはハッハッハと大声で笑うが、会話に混ざりたいのかと思って問うても自分の意見は特にない。一番嫌なタイプ。見物客でいるのが楽しいのだろうが、自分は安全圏にいながら他者を笑って消費するその態度が笑われる側としてはすこぶる疎ましい。無視。

 「『書記バートルビー』って知ってる?『白鯨』を書いたメルヴィルの短編。現代思想の文脈でよく取り上げられるんだけど」
 「知らないな。どんなの?」
 「アメリカのお話なんだけど、バートルビーって青年がいてね。そいつが、法務関係の事務所だったかな、書記として雇われるんだよ。最初は重宝がられてたんだけど、だんだん仕事を拒絶するようになるの。
 “I would prefer not to.” というのが彼の常套句で、「せずにすむとありがたいのですが」っていう意味。で、解雇されてもそれで居続けて、出て行けと言われてもそれで動かなくて。刑務所に入れられるんだけど、ついには食べることも同じようにやんわりと断って、最後には餓死して死んじゃうんだ」
 「へー、変な話だね」
 「私も最初読んだときはなんだこれって思ったんだけど、なんか最近、すごくわかるのよ」

 同僚は「読んでみるね」と言ってその場で光文社文庫の新訳をAmazonで購入してくれた。同僚のこういうところがすごく好きだ。君も私と同様、ほぼ無いも同然の給与しか受け取っていないだろうに。

 「I would prefer not toの状態はこの世にわりと普遍的に存在するらしい、ってことがわかるようになった。“パソコンなど、導入せずに済めばありがたいのですが”」
 「なるほどねえ」
 「中動態を持ち出すほどでもないんだけど、する/しないっていう、自発的な意志ではないところに“せずにすむといいな”があるみたい。パソコンを完備しないのとか、これだけ人が減っているのに何も対策を講じないのとか、それなんじゃないかな」
 「“せずにすむといいな”が社長の人格の根底を支配しているというのは頷ける話だね」
 「人はわりと、意志のする/しないじゃなくてそういう曖昧なものに浸っているものだと思い知ったな……。中動態のこと、頭ではわかっているつもりでいたけど、思ったよりも強く人間を支配しているんだね」
 「……ま、人間がそうだとしても、トップに立つような者がそれを克服しなくていい免罪符にはならないけどね」
 まったくもってその通りだと思う。非-人間が組織の上に立たないでほしい。


 最近、仕事の記憶がすぽんと抜け落ちるようになった。
 打ち合わせがオンラインの画面越しだからかもしれない。確かに親身に2時間も3時間も話し合って、次にやるべきことが決まったはずなのに、私用のMacBookAirをぱたんと閉じて会議室を立ち去れば、用命されたことはすっかり忘れ去られる。
 私用のパソコンを私用以外に使わされてげんなりする。心を摩擦から守るために何もかもを忘れてしまうのだろうか。
 やがて催促のメールを受けてはっと思い出す。思い出すが、手をつけられない。たましいがもうここにないのだ。擦り切れて、なくなってしまったのだろうか。

 「引き継いだ企画、回せてる?」
 「うーん、たぶん」
 「多分って?」
 「最近さ、仕事相手に全部をお願いしてるんだ。何かお願いされても、“私がそれをせずにすむとありがたいのですが……”って、極力仕事を避けちゃうの。申し訳ないとは思うんだけど、もう疲れちゃった。だから、私は右から左に渡すだけで、回してはいるんだけど、なんにもしてない。“私にできることなら何でもご用命ください”って言えてた頃、楽しかったな」