バベルの塔みたいでしょ
女医が「スキンケアをしてください」と言ったとき、私はそいつを殺してやろうかと思った。
怒りで目の前が真っ白になった。手を上げることなく診察室を出たのは奇跡だった。私はあの中国人の女医を、手首のふっくらとした、赤縁のつり上がった眼鏡をかけた、患者と話すのにマスクも外さない、自分を美人だと思っているのだろうあの女、あの肉付きのいい女、一度だって鏡を叩き割ったことのないだろうあの女を、あの女を本当に本当に殺してやろうかと思った。
毎朝、起きるたび、唇の左側が痛む。触ると皮膚が捲れかえっている。下唇の右のほうが細かく割れて出血している。指でなぞると、じゃり、と鳴る。血が固まっているのが剝がれて血が滲む。毎日、目が覚めるたびに痛んで、触れて、剝がれる。空気に触れた肉がひりひりする。
今日も醜い顔で一日を過ごすのか、と思って滅入る。毎朝だ。
ぼろぼろと剝離するものへの嫌悪感。古い実家の物置部屋の奥から引きずり出された革の深紅のボストンバッグに顔をしかめた過去の記憶がよみがえる。手入れをされないまま古くなった革が細かく細かく罅割れて、赤黒い繊維が散っている。以前は艶やかだったのだろう革の、表面がぼろぼろと崩れ落ちて、汚くて触るのも嫌だった。無惨であった。あの崩壊が、自分の顔の額のはしで、頬で、目のきわで、唇のふちで、耳の裏で、たえず生じ続ける。細かく割れた皮膚が、ぼろぼろと剝がれ落ち続ける。細かな皮膚の破片が白く舞って汚ならしい。触ると、粉が舞い落ちる。汚い。汚らわしい。
皮膚がおかしくなり始めてもうどのくらい経つだろう。日記を遡ると、2年前に異変を見つけたようだった。
それは左肩から始まり、足首までゆっくりと降りて、また胸まで上り、ついに顔を侵した。
病院で処方された薬を塗ったり飲んだりするたびに悪化する。血液を採って健康状態を調べても、平均以上に良好な数値しか出ない。食生活はまったく模範的だった。医者たちは恥ずかしげもなくお手上げであると私に伝え、何に効くのかわからない薬物を処方する。藁にもすがる思いで飲む。悪化する。異物を排除しようと、皮膚が悲鳴をあげる。
皮膚が異物を排除しようとし続ける。まるで私自身が汚いものであるかのように、私の身体から私を排除しようと躍起になって崩れ落ち続ける。
毎日だった。じっとしていてもしていなくても、おもむろに患部がかあっと熱を帯び、猛烈に痒くなる。全身のあらゆる患部が代わる代わる痒みを訴える。痒くて痒くて気が狂いそうになる。
激しい痒みで目が覚め、ほとんど眠ることもできなくなっていた。
夥しい血痕が残るシーツをあきらめ、身支度にシャワーを浴びる。水が背中にしみて痛い。洗面所で前髪を上げると、髪の生え際という生え際で肉が露わになっていた。首の後ろに手をやると、血の池の如くぼこぼこと皮膚が沸いている。
掻きちぎってやりたい衝動を深呼吸してこらえる。汚い。汚い汚い汚い。
女医は手元の書類から頑なに視線を動かさない。「私の漢方の処方は間違っていません。あなたは、きちんとスキンケアをしてください」
それはそれは。素敵な医療アドバイスをありがとうございます。ところでそれ、いったい誰に向かって言っているんでしょう。まさか私に言っているんですか。「スキンケアをしてください」と。なるほど。鏡の向こうの顔の崩壊した醜さを恥じ、真っ赤になって自分の顔を睨みつけて泣いたこともないだろうあなたが、あなたごときが。この私に。これは驚きました。
まるで私が化粧水も知らない蛮族であるかのような冷たい目でこちらを一瞥して、女医は汚いものを見たくないと言うようにふいと目を逸らした。肌年齢は40代後半かそこらだが、口紅の色のセンスから50代の半ばだろうことが見てとれる女医。処方された薬を素直に飲んで3週間、通院前よりもはるかに症状が悪化し、ぼろぼろに皮膚が剝がれて見るに耐えない姿になっている私を一瞥してすぐに目を背ける女医。見るに耐えない、と思っていることを隠しもしない女医。
あなたは私が、あなたの言うそのスキンケアとかいうのを怠ったせいでこうなったとでも言いたいのだろうか。自分の処方は絶対に間違っておらず、それに従ったのに悪化した私は自助努力が足りていないのだと非難しているのだろうか。私の努力が足りないからだと。私の美容意識が低いからだと。安物の石鹸でがしがし顔を洗ってごわごわのタオルでごしごし拭き散らかしてそのまま乾燥するに任せてのんきに暮らしてきたせいでこんな悲惨な肌になったのだろうとでも、言いたいのか? 言えばいい。私はその瞬間そこにあるボールペンでお前の目を刺し抜いて、お前の耳を刺し抜いて、7階の窓からそこの車道に突き落として殺す。
ねえ、その二重顎にお尋ねしますが、幼い頃から皮膚疾患に悩まされてきた女が、スキンケアを知らないとでも思いましたか? あれも効かないこれも合わないと、どんな苦労を重ねてきたか、いったいどれだけの金額を費やしてきたか、その脂肪の詰まった頭では想像できませんか? その浅黒い肌色に妙に馴染まないピンク色の口紅を選ぶあなたには想像もできないのでしょうか?
あのね、私は、あなたが口にしたその「スキンケア」とかいうもののためにこれまで、何年も、十何年も心血を注いできたの。
信じられませんか。そうですか。ではこちらの紙束をご覧ください。スキンケアの名目で十何年間とめどなく発行され続けてきたレシートの束です。みて。ほらみて、すごい厚み。すごーい。天まで届きそう。バベルの塔みたいでしょ。
これを、この紙束をね、私はあなたのその青みがかった何とも言えない古臭いピンク色の口紅に彩られたお上品なお口に突っ込んで、ねえ、無理に喉奥に押し込んで、あなたを窒息させてやりたいよ。そのすました鼻をへし折って、その二重顎を引き裂いて、この紙束で窒息させて、青黒くなって暴れてもまだ押し込み続けて、お前が死ぬ瞬間を見たいの。この手で殺してやりたいの。どんなにえずいて泣いても絶対に許さない。許さない。お前が死ぬまで、絶対に許さない。
私の美の秘訣はこれですが、と勧められた怪しい石鹸を苦笑いでお断りした腹いせか、「治らないのはあなたが頑固で傲慢だからだ」と人格を否定され、あまりのことに唖然とした。
病院を立ち去り、泣きながら暗い路地を歩いた。悔しくて涙が止まらない。
なんとか泣き止み地下鉄に乗ると、向かいに座っている女性が私の脚をじっと見ている。血塗れで、赤い発疹だらけで、ぐちゃぐちゃだからだ。
*
「私はこの肌の醜さゆえに、好きな人とは暮らせないです」
たいして仲良くもない年長者の女性に呼びつけられて、権力関係がゆえに付き従って飲んでいた夜だった。相手はべろべろになることも厭わずワインをがぶ飲みしていて、どう転んだか、愛の生活だのなんだのの話が始まってしまった。結婚はいいぞ結婚しろとくだを巻く。最悪だ。私はワイングラスを叩きつけて、何が愛だ、と腹のうちで唾を吐く。
「肌がキタナイからいやだって言われたわけ? 男に」
「それは、そんなこと、言われませんけど」
簡単にキタナイだなんて言ってくれるなあ、と苦虫を噛み潰す。
「ほらね、どうでもいいのよそんなの愛の前ではさあ」
「はは、愛、そうですね」
はいはいわかった。お前の口にもレシートを突っ込んで殺す。
私が毎日毎日毎日毎日毎日鏡の前でくよくよくよくよ落ち込んで悩んで苛立って涙しているこの皮膚の炎症は、この真っ赤な顔は、血みどろの額は、ぐちゃぐちゃに剝がれる唇は、発疹で赤い斑点がひしめき合っているこの肩は、この胸は、この背は、この太腿は。
「愛」の前ではどうでもいいことだ。知ってる知ってる。知ってます。
何が愛だ。お前に何がわかるんだ。
さっきからお前の言っている愛は「共同生活可能性」だ。もちろんそれも愛と呼べるだろう、お前の人生では。でも、私の怯えを、私の諦めを、そんなふうに軽くいなして年長者を気取っているお前に、私にとっての愛を語る資格なんかない。
私がこの皮膚を、この血みどろの皮膚を、どうしても見せられなくてあの人を拒んだ日の痛みを、お前なんかがえらそうに語っていいはずがない。
絶対に許さない。共同生活可能性なんかを愛と呼んで、私の惨めさを無意味な思い込みだとして切り捨てようとしたお前を絶対に許さない。
誰が赦しても、私がその赦しを拒むのだ。腕も足も腹も胸も背も血みどろである私を愛していると誰が言おうとも、赦されても、受け入れられても、それでも私は拒むことしかできない。惨めさを人に取り除いてもらおうだなんて、そんなことをしてこれ以上惨めになって、二度と私は私の足で立てなくなるだけだ。
そんなことを愛とは呼ばない。私はそれを愛と認めない。
私は拒むことしかできない。この肌の醜さゆえに。
*
「ようやく治りました、肌」
「本当だ。きれいになったね」
「まだまだ、劇的に、ではないけど」
醜い部分をひた隠しにして、覆い隠して見せたい部分だけ見せて。劇場で育てた愛。こっちが私の愛である。
覆いを纏って繕った、私を眼差してくれてありがとう。見せたいところだけを見てくれてありがとう。
「醜いと思ったことはないから、別にあなたの皮膚がどうであっても僕は構わないけど。でも、嬉しそうで何よりです」
ざまあみろ、クソ女。何が愛の生活だ。
何度も何度も病院を変えて、ようやく肌を目で診てくれる医師に出会った。すみませんが患部を見せてくださいと言って、肩も背も腹も脚も、視ることが患者へのハラスメントにならない範囲にあるすべてをきちんと眼差してくれた医師は、持参した血液検査の結果を見ながら、「これまであなたを診た医者が参照してきたこの数値ですが、診断には関係ないものです」と言ってスタンダードな薬を処方した。
塗ると、激しい刺激を伴いながら、顔は4日できれいに治った。たった4日で、つるりと肌色に戻った。たった4日で。たった4日。
かつて炎症があった部分を撫でながら、目を反らした女医を思い出す。地下鉄で凝視していた女を思い出す。愛を持ち出して私の惨めさを無視した女を思い出す。醜い姿を見られることから逃げて、拒まれることからも拒むことからも逃げて、黙って会わずに離れた人のことを思う。血まみれの2年を思う。
まるでこの私のうちに湧いてやまないどろどろの憎しみを体の中に抱えきれなくて、肌が炎症を起こしていたかのような錯覚に陥る。どろどろの、汚い感情に、体がアレルギーを起こしていたかのように思えてくる。汚ならしい私の精神に、肉体が拒絶反応を示していたのだと思えてくる。吐きそうだ。
今は、皮膚が治ってもなお消えない殺意を、向き合うことから逃げることしかできなかった臆病を、ゆっくりと薄れつつある無数の傷跡を、眺めながら、ころころと胸に転がしている。
転がしてみたとて、何も癒されない。
誰も私の気持ちをわからなかったみたいに、きっと私だって、誰の気持ちもわからないのだ。
バベルの塔はとっくの昔に崩壊している。