Sooner murder an infant in its cradle than nurse unacted desires

 おこなわれえない欲望を育てるよりは、いっそ揺りかごのなかの幼子を殺せ(、いますぐに)。

 未来にたいする深い深い絶望であるのか、あるいはこの意志もまた「希望に抗う」純然たる生の営みであるのか。
 最近は、「希望に抵抗することの必要」について考えている。これまで絶望には必死に抗ってきたつもりだったが、それは同時に希望にも抗う行為だったのだと、ある真摯な人とのあいだに叶った深い対話を通じてその視座を与えられて、一瞬、頭が割れるように痛んだ。美しかった。


 29歳の前日、直線的でやわい黄色を帯びた初夏の光が木々に揺らされる森で「来年の誕生日にはウィリアム・ブレイクを読むといい」と言い渡され、その時はふうんと思うばかりであったが(イェイツやキーツと同様私にとってブレイクはその名前のみを頭にとどめている詩人だった)、それでもこの1年間、あの森を心にとどめていましたよ。あの人はそのように呪縛する。そうして傍目には全く静かであった狂乱の夏・秋・冬を走り抜けたでしょう? 再び巡ってきた春の盛りに、ふと気分が欲して(私はフォークナーを読み疲れていた)6年ぶりに読もうと手に取った大江健三郎にブレイクの詩への執心がひたすら書き込まれているのを見て心底から動揺した。30歳のひと月前であった。1年前のあの人は現在の私が大江を読んでいるのを知らないはずだ。6年前に私が大江を読んでいたことも。神秘主義は趣味ではないのに。


 Nought loves another as itself
 Nor venerates another so.
 Nor is it possible to Thought
 A greater than itself to know;

 そう口にした少年は火にくべられて然るべきであった。この世界では誰もが認めたくない真実を口にする者は殺されていいことになっている。大江の訳はこうだ。

 誰ひとり自分より他を自分のように愛しはしない
 自分より他を自分のように尊敬しはしない
 また「思想」によって
 それより偉大なものを知ることは不可能なのだ

 訳は『新しい人よ眼ざめよ』に書きつけられている。篠田一士は「大江はフォークナーを原文で読めばわけのわからぬ日本語を書くことはなくなるだろう」といったようなことを述べたそうだ。このブレイクの訳を書きつけている大江はしかし、すでに原文にてフォークナーの精読を終えた後の大江である。それにしてはあまりよくない。「戸口でパン屑をひろっているあの小鳥ほどにならあなたを愛しもしようけれど」。4月、フォークナーに読み疲れて大江に救いを求めた私は何だったのだろう。
 そして、こうしてすべてが定められていたことであるかのようにこの5月の終りにブレイクに導かれてしまった。
 29歳の前日、リルケを手に過ごしたその森で私は赤色の薄いドレスを着ていた。あの森でかつて私は5年の月日を過ごした。あの人は同じあの森で何年過ごしたのだか知らない。次の前日には何を着てどこでブレイクを読むだろうか。どこが私の地の涯てとなるのだろうか。私はまた呪縛されるのか。

 大江がブレイクに出会ったのもどうも同じあの森であったらしい。躑躅の咲く頃であったそうだ。躑躅なんかあっただろうか。
 「図書館に向いながら、僕はなお咲いたままであった躑躅の、すべての茂みに向けていちいち、——おまえらは躑躅ではない、本当の躑躅は、僕自身が生まれ育った谷間の、そこから屹立する山の斜面に咲いており、そいつらの根が崖の赤土を保護してもいるのだ、と反撥するようであったのだが。」
 因果なものだ。何もかもが結びついてゆく。

 そういえば、今より六つほど若かった春、私は自分の所属していない藤棚で大江を熱心に書き写していた。
 それは「共同生活」という短編で、新潮文庫の『死者の奢り』に収録されているから初期のものなのだろう。部屋の四隅に猿がいて、語り手の青年をじっと見ている。読み返してみたが、何がそれほどかつての自分に響いたのかはわからなかった。熱心に藤の下でそれを書き写して日々をやり過ごしたあの時分、私は世界から完全に見放されていて、そのことに折り合いをつけられずどうにかして耐えていたのだった。
 藤の花が頭上で揺れるシーンを今もありありと思い浮かべられる。あの頃、あの藤だけが私のためにあった。


 抗うこと。闘うこと。絶望に、希望に、のまれてしまわないこと。

 新しい視座であった。揺りかごのなかの幼子を殺すことは、抵抗ではない。それは折り合いをつけることだろう。
 私は現実と折り合いをつけるべきなのだろうか、それとも、頑として抗い続けるべきなのだろうか。抗い続けたところで誰がそれを祝福してくれる? 祝福されたい、私は祝福されたい、抱きしめられて許されたい、この生を許されたい。けれどもそれすらも希望として抗うべき望みなのかもしれない。
 私は許されたい。私は安堵して眠りたい。深く、終わりのない眠りに包まれて温まりたい。このこれらの望みに抗うべきであることははっきりとわかる。Sooner murder an infant in its cradle. 生きるとはどういうことなのだろう。
 「本当に欲しいものは手に入れてはならないよ」と人は言う。幼子を殺すことが是とされている世界に私は抗いたいのではないか。安堵して眠ることよりも幼子を殺さないことを欲しているのではないか。