黒豆
先日、初めてのロボット掃除機を買って、黒豆という名前をつけた。
自分が楽をするためにお金を使うのが苦手である。ロボット掃除機なんかその最たるものであって、贅沢品に分類していた。ずっと憧れていたが、身の丈に合わないという唯一かつ強固すぎる拒絶反応が購入を阻んでいた。「私なんかが楽をしてはいけない」という強烈な自己卑下の強迫観念。
食べ物も、賞味期限が切れかけてからでないと安心して手を着けられない。賞味期限が切れて「贅沢品」から「よくないもの」になってからじゃないと、自分が食べてもよいのだと思えないからだ。年々激化していて、最近は快楽以外の目的が伴わない美味しい外食が苦痛で仕方ない。友人との食事すら億劫になってしまった。
ずっと人と深く関わることが怖くて自分の家族を持てずにいた私を「家族」と呼んで、いつのまにかするりと仲間に招き入れてくれた友人夫婦と、別々に暮らしながらも家族をやっている。家長いわく、わが家の家訓は「ギリギリまで贅沢する」なのだという。すごい家訓をもつ家に参加してしまった。
セール情報を見つけてきた夫が「うちとおそろいのロボット掃除機を購入するべし」と言う。「そんな贅沢品、私には分不相応だ」とうじうじしつこく購入を悩む私に、夫と妻は「贅沢と堕落は直結するわけではないよ」「掃除の時間をほかのことに使えるよ」「きみが今苦しんでいることの一つが『リソースの不足』だから、そこに投資するのは賢い選択だよ」「2年使ったら1日あたり50円だよ」「水拭きもやってくれるよ」「帰宅して家が綺麗だとハッピーだよ」と畳みかける。
日々、彼らとチャットしながら帰路につき、22時過ぎに「ただいま」と言うと「おかえり」「おつかれ」と労りの返信をくれる。夫も妻も私の生活の苦しさを知っていて、いつも力になってくれる。私に楽になってほしい一心でロボット掃除機を買うよう迫っているのがわかるので、愛に応えて思い切って購入に踏み切った。
購入ボタンを押したときにおやつに食べていたことから、名前は黒豆とした。
土曜の朝に大きな箱が届き、受け取ってから仕事に出て、ようやく落ち着いた日曜の夜に開封した。
白くてつやつやぴかぴかの黒豆がいろんなところにぶつかりながら私の家のかたちを覚えていく。ゆっくり歩きながら追いかける。
日曜の静かな夜にゴーと吸い込む音が立つのを、ずっと見守っていた。
嬉しかった。自分がよいものになった気がした。