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けれちゃんの繁殖 その2

筆者がほんとうに感慨を覚えた事象については必ず〈書き損ねる〉。

本当に伝えたい、真ん中の中心の核の部分について、人は語り損ねる。決して「それ」を直截に語ることができないからこそ、螺旋を描きながら「それ」でない言葉を重ね、じわりじわりと「それ」に近づいてゆこうとする。

語りの中にぽっかりと空いている穴が何なのか、考えながらでなければ読み手・聞き手である私たちは相手の語りの中心を逃がしてしまう。
書くときに決して拭い去ることのできない不全感の正体はこれだろう。

「どう語り損ねたのか」を訊いてほしい。
「到達できなかった地点を睨んで悔しがっているかわいそうな私」について語らせてほしい。私はもっと先を見据えられるだけの者なのだとわかってほしい。私はこの程度ではないのだとわかっていてほしい。
言い訳させてほしい。言い訳が尽きることはない。語ることは永遠に不全であり、語りつくされる日は永遠に来ない。理想とする地点へ到達する日は永遠に来ず、怨めしそうに先のほうを眺めながら、不足、欠陥、みっともなさ、綻び、塗り残し、書き損じ、失敗、そういったものに囚われ続ける。

肥大する自尊心に追い付かない実力という不全を抱えて歩く。恥ずかしい思いを繰り返しながら、しかしそれでも、腹をくくって語り続けていくことでしか見ることの出来ない景色はあるはずだ。

いや、そんな明るい展望と希望を誂えるまでもなく、生きていく以上、歩みをやめることはできない。

どんなに足が痛んでも、どんなに立ち止まりたくても、絶対に歩みを止めることはできない。素晴らしい景色はそのおまけみたいなもので、本質は、語り続けることを止められないという事実にある。病理とも言うべきそれを、判断せずにいるのも難しい。

言い訳の機会をもらえるのは自分の世界の内側でだけだ。しどろもどろと言葉に詰まりながら、うろうろと目を泳がせながら、話しかけた私は薄気味悪かっただろう。

まだ手の届かない人よ。あなたに向かって言い訳する機会を手に入れるためなら私は恥くらいいくらだってかなぐり捨てて、どんな無理だってしてみせよう。