12月の日記

 やけに仕事が忙しく、もの思いをする余裕もないまま日々を過ごしている。
 忙しいと言っても本当の意味で実務のキャパシティを超えているわけではなくて、だから「忙しい」と語るのも本当は憚られるところだ。日々の中で、精神のバランスを保つのに浪費している時間がものすごく増えた。例えば食事の量が異常になっていたり、早い夕方から酒を入れようとしたり、煙草の本数が如実に増えていたり、金遣いが荒くなってしまっていたり。どれも致命傷だ。死に近づくような状況に、仕事によって、追い込まれている。

 もちろんそれはプレッシャーや不安がもたらすストレスに加えて「おのれの人生を生きられていない」状態への呵責をごまかすための時間であって、まったく不要なものとは言い切れない。それでも、私の醜い甘えがその時間を生じさせているのは否定しようもなく、それらもすべて含めて、なんとなく労働に搾取されて日々を生きているのだった。
 仕事柄、夥しい量の文章を読む。ただ、それは私がこれまでやってきた「読む」行為とはかけ離れていて、「確認する」「見る」くらいの表現をあてるのが適切だ。つい半年前までは、プライベートの時間を確保し、平日の夜や土日に純粋な意味での「読む」に立ち戻ることもできていたのだが、それがあまりにも仕事と同じ動作であるせいで(じっと座し、字を追い、意味を確認する)、いつのまにか、本当の意味での「読む」おこないが身体から剥がれ落ちていった。「読む」ができない身体になっていた。
 週末に、業務には繋がらないような、私的な好みでもって小説を読んでいると、「こんなものを読んでいる時間があったらもっと目を通さなければならないものが山ほどあるのに」と焦るようになっている。読むことを仕事にしてしまったせいで、「読むべきもの」と「読みたいもの」に優先順位をつけてしまったのだった。
 そんな気分でいるうちに、小説でも学術書でも、そこにある文章を味わうことがまったくできなくなってしまった。とにかく結論を急いでしまうばかりで、経過の機微や文体の美しさを味わうことがさっぱりできなくなってしまった。

 そうして私は漫画に逃げた。もうしばらくのこと、漫画に逃げている。とはいえ漫画に逃げると、小説を読んでいる時以上に焦りに苛まれるのだった。完全なる悪手だったが、気持ちよくてやめられなかった。理性的な私は思う、こんな時間を過ごしていていいのかと。こんなことをしているあいだにできることがあるはずではないかと。漫画を読むくらいなら仕事をすればいいのではないかと。文字に疲れ果てた私が反抗する。文章を読みたくないのだ。あの何字何行のフォーマットにびっちり整然と収まっている活字の束を見たくないのだ。
 漫画を読んでいる時だって、絵なんかほとんど見ていない。セリフの文字だけを追っている。それでもまだ、ふきだしという凝集しないフォーマットに乗っている文字を読むのならばずっとマシだった。そのとっちらかりに癒されるのだった。癒されつつも、呵責に耐えられず、酒を飲んでごまかす。酩酊して沈没して、望みと現実との齟齬をやりすごす。最近はそんな感じだ。呼ばれて必要な時にだけ、人間をやっている。

 それでも、仕事のことは嫌いではない。私が望んで就いた専門職、それを通して得た技術を余すことなく生かせる仕事をできている。けれどもの長い読者で、前職での悲惨をご存知の方には安心していただきたいくらい、現職の人間環境はすばらしい。先輩方も優しくて何でも教えてくれるし、何より上司に恵まれた。現職について、初めて自分が「人のためにしか働けない」のだと知った。私は今、本来ならばもっとも心の重きを置くべき取引先ではなく、上司のために働いている。上司と、チームのために働くことに甲斐を感じている。部活なんかろくにやってこなかった自分がどうしてそういう性質を備えているのかはよくわからないけれど、奉仕の精神が私を働かせている。
 とはいえ、書けなくなりつつあることは確かだ。それが仕事のせいであることも、冷静な目で、理解している。
 このまま自分の表現を捨ててこの仕事を続けるか、それとも自分の表現を守るために仕事を捨てるか。そういう二択になるのであれば、私の答えは決まっている。自分の表現を捨てる。私の表現は、命をかけるほど美しいものではない。

 小説を読む余裕を失くしてしまってどのくらいになるだろう。今年の芥川賞候補作が芥川賞候補作として妥当なのか、私にはもう判断できない。小説を読んでいないからだ。小説の文体やストーリーの良し悪しを感じ取れないくらい、もうずっと、小説を読めていない。じゃあ何を読んでいるのかというと、それもわからない。私は文字を読んでいる。私は文章を読んでいる。まずいところがあればきれいに直す。機械的に直す。直ったものはとても綺麗だ。でも、作業でしかない。
 最後に物語を読んで感動したのは、佐藤亜紀の『喜べ、この幸いなる魂を』を一日で読み通した日、それも半年以上前になる。ベッドに背もたれを設置して、週末の日曜、昼間から自分でこしらえたサイドカーを携えて、時折うとうとしながら読み通す機会があった。あれは幸福だった。時間をすべて自分のために使った感じがした。よい小説だった。あれを最後に、週末に小説を読むことはなくなった。以来、何の本も読み通していない。そのことに恐怖をおぼえている。自分が、本を読めなくなったことに対する、恐怖。それが仕事のせいであるとわかっている、呵責。

 仕事が充実しているのは、それはそれでよいことだと思う。現職を愛しているし、期待に応えたいと思って励んでいる。けれど、充実ではなく圧迫になってしまった現状を肯定することはできない。だからといって、肯定できずとも、「そう」しか生きられない状況にはまってしまっている。追い立てられている。
 これが、若者には(30代を若者と呼ぶ業界にいるのでこの表現を許してほしい)避けて通れない、ぎゅう、と音の鳴るような社会的圧力であることは理解できている。人生ないし生活のすべてを賭けるのならば、格好のシチュエーションだろう。ここで踏みとどまれば、順当な昇進が待っているのだから。でも、私は仕事だけを人生の賭すべきものに置いておらず、折り合いがつかないのだった。かつ、これほど仕事が充実している時、本当なら自分が賭したいおのれの表現というものに、時間を使って表現するべきだけの価値を見出すのが難しいのだった。

 私が、何かを書く意味とはいったい何なのだろう。
 それは、この「仕事」を超える価値を持つものなのだろうか。「仕事」は数字によって私に有用性を与えてくれる。けれど、私が自己存在を担保に書きたがっているものに、価値があるのかどうか、まったくもってわからない。私は自分の生み出すものの価値に自信を持つことができない。
 でもそれは、私が業務に圧迫されて小説を読んでいないせいだと思っている。小説の文体を身体化しないまま、仕事の文体を身体化してしまって、それがゆえにその世界に乗り込んでいけなくなってしまっている、ただそれだけなのだろうと思う。
 本当は「書く意味」などこの世に存在しないのだ。ただ「書かれたもの」だけがある。それを私も生み出したい。どうしても、仕事が邪魔をする。それが歯痒い。書きたい。人に認められるものを、書きたい。人が読んで、人生を肯定できるようなものを、書きたい。それができないことが苦しい。苦しくてたまらない。