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 妹のように可愛く思っているひとが26歳の誕生日を迎えるのだという。孤独に苦しんでいる私の姿をみて、切ない声で「私もあなたの家族になりたい」と言って、この果てしない痛みをみずから引き受けてくれようとした彼女を天恵のように思う。大事な人を大事にしたい。彼女の歳の頃によく通っていた店に予約をとって祝いの席を設けた。着席すると、夕闇の窓の外で大きなオリーブの樹が茂っている。

 細かな雨が降ったり止んだりするのが少し心細い、秋の入り口の金曜日の19:30。少し肌寒い、夜はすっかり暗い。
 彼女は、鈴蘭の刺繍の施されたスカートを纏って現れた。綺麗ねと褒めると、ねえさまに会うのでおしゃれをしてきました、とはにかむ。爪の先まできれいだ。初めて会った時からそうだった。何を着れば自分の存在をもっともよく表すことができるか熟知している彼女の賢さにためいきがでる。鈴蘭の刺繍、オリーブの葉、石板のテーブル、ラギオールのベージュのカトラリー。よく演出されている。

 一品めには火を通した夏の茄子とシャインマスカットをライムのヴェールで包んだ前菜。夏の最後の風を軽やかに演出している。店に任せた酒はシャンパンから始まる。

 「前祝いになってしまったけれど、お誕生日おめでとう」
 そう述べると、「25歳の最後を一緒に過ごせてうれしいです」と人懐っこい笑みをこちらに向けてくれた。あなたを信頼しています、というまっすぐな心を込めた柔らかい笑みの心地よさ。

 まだ世界ともどかしい関係にある年頃の美しい彼女は、自分の未来をはっきりとは定められずにいる。戸惑いながら、折り合いのつかなさをきちんと受け止めている。
 真摯だ、と思う。彼女の誤魔化しをしないところが彼女を美しくしていると思う。

 バルサミコに浸した旬の鰹で炙った和牛をくるんだ一品は、紫蘇の花があしらわれ、酸味の赤身の魚と赤身の肉が思いのほか馴染んですっきりと噛める。ゴージャスだが、清潔な味。

 「成長したなあって実感をもつことがなくなってしまったんです」

 苦しげに、もどかしそうに、少しばかり退屈そうに、彼女が語る。5つ年嵩の私は、彼女の歩むことになる未来を明るく示そうとする。

 「成長は、振り返った時に初めて感じることだから、さなかにいる時には実感できないものだよ。あなたは今この瞬間も成長している」

 まっすぐこちらを見つめて、一言も取りこぼさないように努める彼女の眼差しに応えたいと思う。徒らな疲れに押しつぶされて丸まった背筋が伸びる心地がする。料理もワインもゆっくりと丁寧に届くので、話していられる時間が長い。

 「ずっと、お尋ねするか、迷っていたことがあって」

  一通りの近況報告を終え、いよいよメインのパイ包みにナイフをいれようとする時、彼女はおずおずと語りはじめた。

 「昔、10代のころ、tumblrか何かで流れてきた画像で見かけて、以来ずっと好きだった手書きの文章があって。本当に好きで、何度も何度も模写を繰り返していて」
 「……そこに書かれた字が、あなたの字に似ているような気がしているんです。確信は、ないのですけど」

 身を固くする。それが私の書いたものではなかった時に落胆しすぎないよう、大急ぎで心に防壁をはりめぐらせる。
 彼女は、彼女も、違うかもしれない、という不安でいっぱいになっているのがわかる。指が少しふるえているように見える。

 「ずっと、似ていると思いつつ、“す”の書き方が少し違うかなって疑ったりして」
 「でも、その字と、そこに書かれた文章がすごく好きで」
 「ずっと好きで」
 「小説の一説かなと思って探しているんですけど、見つからなくて」
 「ええと、あれ、私が書き写した画像しか見当たらない……もう、何年も前に保存したものだから」
 「すごく好きなんです、字も、文章も」
 「その文章にはね」
 「“真鶴に”とあって、川上弘美さんの『真鶴』かなと思ってつぶさに探したんだけど、その一節はありませんでした」

 真鶴、という語を聞いて、あ、と思う。

 「ああ、それは、たぶん私です、……これでしょう」

 フォルダを2015年まで遡り、ある手書きのメモを写真に収めた画像を見せると、彼女は眉を開いて「それです!」とほとんど泣きそうに叫んだ。
 それは5年前、私が彼女の年齢だったころ、現実のままならなさに苦悶しながら書きつけた声であった。

 
 まさか、こんなことがあろうとは。
 私と出会うずっと前から、彼女はそれとは知らずに私の断片を愛してくれていたのだった。
 何度もその手で書き写したのだという、模写の写真を送ってもらった。彼女らしい愛らしい字で、私の書きつけたものが書き直されている。私の文章が、私のではない字で書かれている。
 「字が本当に下手で」と恥じらう姿すらまぼろしのようだ。

 今の今まですっかり忘れていたのに、確かに私の書いたらしいまだ少し若い字で書かれたそのメモを見た途端、当時の若く苦い記憶の断片が鮮烈によみがえった。
 彼女が今終えようとしている25歳だったあの頃、私は望むものが何一つとして手に入らない苦しみに身悶えしていた。
 望んだすべてのものが私の指の間をすり抜けていった。すべてがこぼれ落ちた。降り落ちてくる桜の花弁をうまくとらえられないように、何もかもがすり抜けた。手を伸ばしても、かき抱こうとしても、すべてはひらりと私を逃れていった。
 自分が何に苦しんでいるのかすらわからなかった。思い返せば、あれは孤独であった。孤独に苛まれ、それから逃れようと躍起になっていたのだった。あの頃、私は人を愛することを知らなかった。それゆえに私は世界に拒絶されていた。

 そんな泥まみれの体が書かせたメモであった。
 ままならなさ、苦しさ、いくらもがいても光が差さない世界でもがき続けることの疲弊のなかで書きつけた悲鳴が、まさか誰かの心を癒しているだなんて、考えたこともなかった。
 それも、この子を。大事な大事なこの人の心を癒してきただなんて。

 過去の痛みが癒える心地がする。あの頃の、私には何の価値もないのだと、私は誰にも無用な存在なのだと、そう思いつめて誰からの愛も受け取れなかった頃の私が救われるような心地がする。
 5年後の私は愛を正面から受け止めている。

 今日、彼女は26歳を迎える。
 彼女が愛してくれた25歳の私を5年越しに見せてもらって、あの頃の自分の未熟さを思い出した。人を愛することを知らなかった自分の、張り裂けそうな身悶えを思い出した。
 あなたはかつての私なんかよりもずっと大人だ。ずっと冷静で、ずっと思慮深くて、ずっと素直で、光り輝いて、ずっとずっと綺麗だ。
 それでも、今の私の年齢をあなたが迎えるまでの5年間、あなたは変わり続けるだろう。よい方向へ、あなたがそうありたいと望む方向へ、進み続けるだろう。
 きっと、私の書いたあのメモを必要としなくなる日もくるだろう。私がそうなったように。「途方もなく、淋しいことなのだろうか」と問うこともいつかなくなるだろう。それでいい。それがいい。

 私は彼女に証明できる。あなたはこれからもまだ、ずっとずっと先へ進んでいけるのだと。
 「先」が、まだはっきりとは見えないかもしれない。しばらくは停滞に苛立つかもしれない。事あるごとに、不安になるかもしれない。
 そんな時には私を見てほしい。踠いてもがいて、あのぼんやりした苛烈な苦しみから、あの途方もない淋しさから脱却した私が軽やかに歩く様を見てほしい。

 きっと少しは安心できるでしょう?