見出し画像

金曜日の日記(すごく疲れた)

昨夜の夜遅く、「ご報告」と題されたメールが届き、胃を痛くしながら開封した。相変わらずの長文が画面を埋め尽くしている。二十四枚におよぶ添付資料。
「ご報告」によると、この数か月間、その中に囚われて心をぐちゃぐちゃにしていたバミューダ・トライアングルからようやく解放されたらしかった。


一、遡ること十年、品性の卑しい低俗な人間達による世にも下劣な行ないがあり、
二、それによって深く深く心を傷つけられたある非力な人間の痛切な闘争があり、
三、その両者に関与してはいるが火の粉を浴びせるわけにはいかない事業があり、
七月以来、これらの三地点が結ぶ三角形の中でもがき、奔走し、気力が減耗していった。
十月のある朝、いまだかつてない大きな虚脱感の濃霧に包まれて指先すら動かなくなったが、どうにか払い除けて目を覚ました。現実を諦めてどこへ行くこともできない。反対向きの電車に乗って海に出かけたからといって寝ても覚めても意識に靄をかけ続けている悪夢が霧消するわけでもない。


一、
卑劣な人間達は自らの行ないで傷ついた人間を嗤っている。
その人を傷つけたことをまるで武勇伝であるかのように楽しげに語った。卑しい笑顔。私を酒席に無理に呼び出し、さあ一緒に嗤えと酒を飲ませる。あまりの醜さにくらくらした。自分がこのような下賤な人間に使われる立場にあることに耐えられない。悪意のおぞましさに耐えられない。

二、
あまりにも深い傷が書かせる、ほとんど怪文書ともいえる長文メールが夜更けに届き続ける。
二にとって私は傷なされて十年目にして初めて摑んだ糸であった。
人が傷つききって今にも発狂しそうな生々しい姿はあまりにも痛ましく、私まで心が傷つき、よく眠れない日が続いた。
人の傷が見せる。冷たく暗い沼に沈んでゆく、寒い寒い夢。
ある夜「あなたの顧客の皆様に事の次第を報せる書簡を投じました」と連絡がくる。頭痛がする。

三、
大切な事業だ。飛んだ火の粉を炎にするわけにはいかない。消火に焦って走り回る。揺れるバケツの水面に埃が光る。
長老たち一人一人に頭を下げて回ると、彼らはみな私の立場と板挟みの苦しみをよくよく理解してくれた。三時間も、四時間もかけて同情をくれる。
僕達はみんなあなたのことが好きなんだよとやさしい言葉をかけてくれるが、謝罪疲れと感謝疲れは身を削っていった。申し訳ございませんもありがとうございますも痛み入りますもお力添えのお蔭様ですももう言いたくなかった。


連夜、夢を見る。
冷たい沼に溺れ、凍えきって沈んでゆく夢。あるいは熱い火の夢。
白い朝の光が差し込む部屋で目を覚ました時だけは、何の夢も見なかった。


一、
再三の要請ののち、責任者が重い腰を上げ、ようやく終わったらしかった。
和気藹々と事は収まったと聞かされる。本当だろうか。

二、
相変わらず眠ろうとするとメールが来るのだな。
スマートフォンを埋め尽くす長文メール。二十四枚におよぶ添付資料。
事は穏便に収まったと聞いていたはずが、報告文はあまりにも激しい憎しみに満ちた文章で綴られていた。
最後のご挨拶にかえて、「あなたへの信頼を喪失しました」と強い非難を浴びせかけられる。これまで尽くしてきた誠意、理解と同情、敬意、あらゆる心と労力を、すべて否定されてしまった。
深く傷ついた人間の傷に共鳴し続けてへとへとになり、危うく死に追いつかれそうにすらなったこの数か月間をそんなふうに詰られて、あまりにもやるせない。足に力が入らない。

傷ついた人間は、人を傷つけていいのだろうか。
負った深い傷は、誰かを傷つけることへの免罪符になるものだろうか。

三、
私への痛烈な非難をみかねて、「あなたは悪くない、あなたは誠実でした、二はどこかに持て余した感情のはけ口が欲しかっただけでしょう」と苦慮を労うお言葉。真昼の涙腺がゆるむ。
失ってはいけない信頼と、失っても仕方ない信頼があるのだろう。必要なほうを繫ぎとめることができたらしかったが、痛むことには変わりない。


生きていれば、これから同じようなことは何度も起こるだろう。強くあらねばならない。これしきのことで虚無に覆われるようなことは、二度とあってはならない。
他人の傷に共鳴することを、これしきのことと呼びたくはないが、呼ばなければやりきれない。天災であると。

仁義を切ることでしか対処できないことが次々と起こるのがこの世界だ。切った張ったはあまり趣味でないが、ここにいる以上、嘘をついても誤魔化しをしても、目の前の人間に対して誠実であることだけはやめてはならないのだろう。それによってどんな傷を抱えることになっても。その誠実さがどんな種類のものであっても。たとえ正しくなくとも。

ここから逃げてもどうせどこへも行けない。海にさらわれても空を飛んでも月が降ってきても現実は私に追い縋ってついてくる。
何があっても大丈夫にならなければならない。