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時間と時刻、明け方

 午前四時を回ろうとしているが、眠くない。当然だ。朝は十一時まで起きられず、昼は三時から七時までの長い午睡をとったのだ。昨夜はしらふのまま一時半に眠ろうとして失敗し、仕方なく起き出してスコッチを雑なコップで飲み進めながらだらだらと手記を綴っていた。何時間たったか、空が白み始めてからようやく眠りに落ちられそうなだけの酔いが体に回った。もう何年も、わたしの夜の眠りは眠りではなく気絶である。

 四月の終わりになんとなくお酒が要らなくなって、しかしそれはひとえに、休暇に入って《時間》から逃れたためであろう。時間というかは《時刻》というべきか、《時刻》に追い立てられて夜を終わらせるために一晩でワインをひと瓶と半分空けるような、一升瓶の日本酒を半分飲むような、目が覚めたら新しく開けたバーボンの瓶が四分の一しか残っていないような、そんな生活は九時まえにタイムカードを押すことを義務づけられた会社員としてやっていくための私なりの適合手段であった。夜の時刻にちゃんと寝るための手段であった。
 五月に入ってからはずっと炭酸水を飲んでいる。炭酸水を円滑に飲み進めるために、佃煮とか、チーズとか、お漬物とか、そういう塩っぱいものを食べている。酒浸りの嚥下が何年もかけて癖(へき)になってしまっている。これが《時間》への激しい怯えによる神経症的なおこないだとわかっている。常時、身体を刺激して、《時間》を忘却するための健気なおこない。そしてその身体すらも忘却したくて大量の酒を飲み酩酊するのが常だった。わたしは夜を恐怖している。自分についてのすべての責任をとらされる夜を。昼よりもなお《時刻》がわたしを糾弾してくる夜を。

 ここ数年、「眠たい」というのは昼に属する感情だった。眠気は昼にしか訪れない。体が《時刻》を拒んでいるのだろうか。朝の十時半や午後の四時に睡魔と戦うのが常である。今日も眠気は昼に属していた。誰もいない部屋の、野菜をたらふく食べたあとの、午後三時の安らかな入眠。
 午睡とは関係なく、いつだって夜に眠ることはできない。眠れないので仕方なく起きている。朝焼けを眺めると、二十歳前後に暮らしていた渋谷区上原の空の色とは違うことに気づく。今の空はあのころ帯びていた青みを失って、白く、鈍く、赤い。

 炭酸水が一本、二本、三本と空く。しらふであると、本をすらすら読みこなせることに驚く。わたしが酩酊しているあいだに酒に溺れない人々が読みこなしてきた書物の量を考えると忸怩たる思い。
 どうして空は赤くなってしまったのだろう。

 


 昨日はずっと大江健三郎を読んでいた。初期の終盤のみごとな短編をいくつかと、中期の「障害者を子に持つこと」にモチベーションがシフトしたものをいくつか読んだ。
 大江の短編はすこぶるいい。とくに初期は、思いがけないところに思いがけぬ一文が挟まって、それは画家が風景画に入れた異色のワンストロークが画面全体をきっちり完結させる厳かな役割を果たすかのようである。大江の筆は決して「感じ取って」欲しがらない。読者と癒着しない。飛躍はあっても矛盾はない。中期の初期の文筆には個人的にはあまり魅力を感じないが(「雨の木」のころなど、戸惑いを咀嚼しきれず、戸惑いとともにあるような文筆に付き添うだけの体力がわたしにはないのだ)、「静かな生活」あたりは晴れやかな距離感を取り戻していて喜ばしいと思う。寂しいと思うべきなのかもしれない。

 読んだなかに「空の怪物アグイー」があった。「アグイー」にも《時間》の概念とそれを拒絶している男が登場する。
 それは、狂うことで(あるいは狂気を装うことで)人間の生きる《時間》をみずから止めてしまった音楽家を“介護する”アルバイトを務める大学生の青年が語る物語だ。音楽家がなぜ狂ってしまったかは話の核心となるので伏せるが、《時間》についてかれはこう語る。

 「ぼくはいま、すくなくとも自分の意識ではこの《時間》の圏内に生きていないんだ。きみはタイム・マシンによる過去への旅行の規約を知っているかい? たとえば一万年前の世界に旅行した人間は、その世界でなにひとつあとに残るようなことをしてはならない。なぜならかれは一万年前の真の《時間》には存在していないんだし、かれがそこでなにごとかをあとに残すようなことをすれば、この一万年の歴史全体にわずかでも確実な歪(ひず)みがおこるからだ。ぼく自身、いま、この現在の《時間》には生きていないんだから、そのぼくが、この《時間》のなかであとに形をのこすことをしてはならないわけだ」

 そういって音楽家は、自分のつけた足跡をペンキを塗り替えて消させたり、モノとして残ってはいけないからと手紙を書きたがらずに伝言を暗記させたりする。
 音楽家の元愛人である映画女優の見立てでは、音楽家はかれのある喪失をきっかけに、《時間》を生きることで生を塗り替えて喪失について忘却してゆくことを拒んでいるのだという。また、音楽家じしんが語るところによると、かれは《時間》を生きるのを拒否することで喪失をこれ以上増やすことを拒んでいるのだと。
 映画女優の仮説も、音楽家の独白も、いずれも真実らしく聞こえるが、おそらく取ってつけただけのいいかげんな説明だろう。さきに引用した《時間》の解説すらも。なるほどと読者に思わせるすべてが。
 理路整然と語られるもっともらしい理由の一切が「ほんとう」ではない。大江健三郎の書くものの「矛盾のなさ」は、「ほんとうでない」ことの証左であり、大江自身もそれを巧みに操っている。だからわたしたちは「安心して」大江を読むのだ。そこに矛盾がないことに気持ちよく寄りかかるのだ。

 


 一人暮らしを始めたころからわたしの家には時計がない。わたしはだんだんと二十四時を生きていられないようになった。
 はじめのころは燦々と陽光降り注ぐ明るい部屋に住んでいたのでまだよかった。朝昼晩の区別がついた。光が入らず、午後から朝のある一瞬まではずっと夜であるかのような洞穴のような家に暮らすようになると、次第に矛盾のないものを書くようになった。
 一本の筋を通して、けっして逆行を許さない。相反する事柄の片方は捨象し、なかったことにする。感情も意志もそのように扱う。出来事は、生は、わたしの手で丁寧に「ほんとうでない」ものになっていった。まるですべてが望みどおりに運んだかのような、すべてが正順に生じたかのような、予定調和の人生を日々書き上げた。仕方なくのみこんだ苦しい結末も、まるで最初から自分がそれを望んでいたかのように書き上げて、「ほんとう」を「ほんとうでない」ものにすり替えるとようやく安堵できた。
 わたしは生を書き、本物よりもよく作られたレプリカを供物として奉げることで現実の時間に迎合しようとした。逆行しない、矛盾を孕まない、間違えることのない、一本の単純すぎる《時間》を強制する現実に自らを糾合させようとした。時間への恐怖心の根源は、時間が失敗を許さないことにある。
 
 どうせこれもいずれは破綻するだろう。
 九日間の休暇がわたしを《時刻》から解放している今だけは酩酊を欲することもないが、この連休が明けたらふたたび夜がわたしに正しさを迫ってくる。間違えを許さない夜が。失敗を許さない《時間》が。
 午前四時の空にかすかに走る一筋の青が、たった一筋の青が、朝鳥の鳴く声が、静寂のやぶれが、誰に脅かされることもない目覚めが、この静けさが、この静けさのなかに走る一筋の青が、世界の終焉の合図であったとしても構わない。この狂おしい《時間》への恐怖から解放されるのなら、べつに世界あるいはわたしが崩壊しても構わない。「ほんとうでない」生を書き上げて《時間》の目を誤魔化すことでなんとか凌げているうちに、ぱんとはじけて終わってしまえばいい。


 どうでもいいが、大江の小説には「驟雨」がしょっちゅう登場する。それは比喩であったり本物の驟雨だったりするが、どうも、すべてを攫ってゆくもの、あるいは未来をすっかり予期せぬものへと変質させてしまうものとして扱われているらしい。たとえば吉行淳之介などは驟雨のなかに物語の余地すなわち《時間》の余地を与えるが、大江は驟雨のことをまったくの《無時間》として切断の役割を担わせている。わたしは雨については《時間》を内包した上でその内包した《時間》を世界から覆い隠すものだと捉えているので、たとえば大江が「アグイー」で「驟雨のようにドーベルマンが襲ってくる」ような場面を展開しているのには驚いてしまう。かれにとっては雷よりも風よりも驟雨のほうがよっぽど絶望的なのだ。大江にとっては、《時間》も怖いが同時に《無時間》もまたこの上なく恐ろしいものなのだろう。大江ほどものが見えているとき、心はそれに耐えられるものなのだろうか。