そのくせわたしたちは、フィルムの味を有り難がったり、涙の理由を分からながったりする

 わたしが早朝の決意をこめて「選択肢を百倍に増やしたい」と呟いたところ、ロボット倫理がどうとか言ってる学友に「2択を7個設ければいける」と、じつに建設的な助言をもらった。メトロに乗って九時半の退屈へと出勤中のわたしは朝の四月病から我にかえってニヤリとした。(四月病のようなもので、だいたい天気がいい日の元気な決断は無意味なきがする)

 その学友はわたしが大学二年生の時に知り合った同級生で、たぶん五年来の友人ということになるんだけど、あいつはまだ大学三年生。時間の体感が三倍くらい違うみたい。こないだ哲学科に進んだそうで、ベルクソンがどうとか言ってた。「生の哲学」という、人間の理性に対する生の優位を説く潮流があるんだけど、ベルクソンの思想はその流れを汲んでいるとされることもあって、そんなベルクソンが彼の関心を引いたのも頷けるはなしだ。なぜならあいつは、哲学科に進学する前から、ロボット倫理学がどうとか言っていた。(ような気がする)(私たちはめったに顔をあわせない)

 この「ロボット倫理学」というのが今のところの彼の興味の根幹をなす対象で、すごく極端に言うと、「ロボットが人を殺したらどうする?」とかそういう問題を、きちんと整理していくための倫理学であるらしい。ロボット倫理学という言葉自体が2002年にイタリアで提唱された真新しいものだから、あまり広く知られるところではないのかもしれないけれど、わたしたちの国でいくつかのアニメを見ていると、これってぜんぜん他人事じゃないような気がしませんか。

 ロボット倫理のような問題に哲学の観点からアプローチするのは、わたしにもなんとなくだけれど理解できる感覚だ。だって、まず「人間なんたるか」に一応の答えを与えないことには、「人間の創り出したモノなんたるか」に対処することはできないんじゃないか。簡潔で、筋のとおった、とりいそぎの結論を出すならばきっと法学社会学政治学の観点が手っ取り早いのだけれど、わたしたちが制度ではなく「生」を生きている以上、明快な答えがただそこにあればいいってものでもない。

 ところがわたしたちはみんながみんな哲学者よろしく深遠な人間観を考察できるほど頭がいいわけでもないし、それ以前におおかた生活に追われていて、加えて感情にも身体にも追われている。生きるということに追われていると、根源的なことを理屈っぽく考えていくことこそがばかばかしく思われ、わかりやすい、単純な、シンプルな、簡単に飲み込める答えを欲しがる。それこそがリアルなのだと言わんばかりに。

 そのくせ、わたしたちはアナログの複雑な世界を生きたがっていて、フィルム写真の味を有り難がったり、涙の理由を分からながったりする。感じるだけなら複雑で構わないのだ。でも、考えるべき世界だって、本当はそんなに煩瑣じゃないはずだ。少なくともわたしたちの手の届く世界は、思考を放棄すべきほどの煩雑さを抱えてはいない。

 ロボット倫理学に関心の幹をまかせている友だちが「2択」を言いだして、まず最初におもしろかったのは、「選択肢を百倍(曖昧な誇張のアナログ)に増やしたい」なんてぼやけたことを言ってるわたしに、「2択(二進数のデジタル)を7個設ければ」ととても具体的な案を提案してくれたことだったのだけど(しかも漢数字に対して半角算用数字で!)、そういえばあいつはロボット工学じゃなくてロボット倫理学だった、と思いついて、いっそうおもしろく感じた。ちなみに本人はロボット哲学を標榜している。

 駆け出しの学問領域が、進む道を作るべくぼうぼうの草叢を掻きわけている時期には、「ここの草は倒すか倒さないか」「道をここで右に曲げるか曲げないか」といった軽重さまざまな問題がつぎからつぎへと降ってくる。しかし、どんなに重くとも、細かいことに過ぎずとも、それらはすべて二択として突きつけられる選択肢だ。その二択を無限に繰り返し、時には後戻りしたり、失敗から回復する手段を模索したりしながら、新しい道は次第に長く伸びてゆく。

 わたしたちの生活だっておなじことだと思う。未来はだれにも見えない。今まさに手の届く選択はかならずひとつだけで、それはおよそ「とる」「とらない」の二択なのだ。いまこの瞬間に自分が手に取れる、輝かしい未来への選択肢がマリー・アントワネットのクローゼットのように無限に並んだとしても、それらひとつひとつに対峙してわたしたちが出来るのは、「とる」「とらない」「とる」「とらない」を繰り返すことだけだ。

 逆にいえば、というか元の助言にもどるわけだけど、「2択を7個設ければ」無限大の選択肢を手に入れることになるわけです。

 曖昧で、遠大すぎるような、手に入れるまでのみちのりを想像するだけでうんざりするようなことがらも、アナログをデジタルに変換するみたいに、二進数の連続に書き換えることで、その1と0のでできた道を進むことができるのかな。そんなふうに思うと、すこし希望が開けたような、かえって肩の凝るような、けれどもやっぱりニヤリとしてしまう。小川にかけられた飛び石に足を伸ばすような、横断歩道の白いところだけ踏みたがるような、そんな恐れとわくわくがやってくる。

 世界の曖昧性を言語に収束させる哲学と、進数的な厳密性で構築して曖昧な世界へと還元させる工学との交差が一瞬、燕みたいにひらりと舞ったように感じた今朝の「おもしろい」のご報告でした。