見出し画像

1/13, 3:00AM

 10年前にはこのあたりで暮らしていた。どの裏通りに入ってもどこで曲がればどこに出るかよく知っている街。遅くまでやっている暗い喫茶店で数時間話し合って、気づけば日付が変わっていた。
 私だけ終電を逃したので、私ひとりで徘徊する。連休の中日だというのに奥渋は静かだった。

 神話を書いてくれないか、との注文を受けた。一体どこで私が「神話を書く」と言うのを聞いたのだか知らない。私の言っている「神話を書く」とはそういう意味ではないのだが。まあ、仕方ない。
 表現することには慣れているが、おこなった表現を見てくれるよう誰かに主張することにはすごく抵抗がある。「書きました」とは言えても、「書いたから読んでください」とはどうしても言えない。あなたの書いたもので何か神話に近いものはあるかと訊かれて、過剰に恥じ入りながらこれは近いかもしれないと提出したのが年の初め。申し訳なさで死ぬかと思った。
 そう話すと、「それも含めて表現だからね」と簡潔な返答。ごもっとも。こんなごもっともな意見を言う人に神話を提出するのはおかしな話だった。

 「読んでください」とどうしても言えない。
 幼い頃、「とにかく周囲以上であること」を祖母から求められて、小学校の夏休みの宿題のほかに課されてもいない自由研究と課されてもいない作文をさせられていた。
 数軒となりに住む同級生とは「あの家は悪い家だからあの子と遊んではいけない」と交友を禁止され、夏休み中、習い事に出かけているかピアノを弾いているそのほかの時間は、祖母の書き物机の端に座らされてその制作をやらされた。読書感想文と、生物の観察日記と、あとは何を書かされたか覚えていない。同監視の下、夏休みの宿題は開始一週間でとっくにすべて終わっている。課題をこなしたのに自由にはさせてもらえない。

 祖母は「担任の先生に見せなさい」とそれらをまとめた分厚いファイルバインダーを学校にもたせたが、私は求められてもいないものを教師に押し付けるのが恥ずかしくて提出しなかった。小学一年生の夏休み明けの登校日。
 家に帰って、ランドセルに入ったままのファイルを見つけた祖母に激しく叱られて大泣きした。祖母は叫びながら激怒する人であった。祖母のことが死ぬほど怖いので翌日担任に提出した。提出しながらあまりの恥ずかしさに少し泣いた。教師は自分が泣かせたとでも思ったのか慌てふためき、同級生のみなさんに呼びかけながら私を褒めた。最悪だった。受け取ってもらえるだけでよかったのに。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかった。表彰しなくていい。点数をくれなくていい。教室のような狭いところで優劣なんかつけなくていい。
 長期休みのたびに分厚いファイルを作らされた。職員室で教師たちに何を言われているか考えると気が滅入った。学年が上がるごとに、かならず前年よりも厚みを増すようにと祖母に厳しく指導された。祖母は私が好きでもないのに飼っている魚の観察日記を書くのを見張りながら般若心経を丁寧に写経していた。毎日欠かさず書き写した経をなんとかという立派な寺に納めれば極楽浄土に行けるのだそうだ。信心深さとはかけ離れた行為に思える。この人は何がなんでも人の優位に立ちたいのだ。学校で教師に評価される誰よりも優秀な孫を持ち、それを自分の成功体験としたいのだ。

 小学四年生のとき、足の悪い祖父が不運な事故に遭い寝たきりになった。祖母は祖父の寝ている病院に通いつめ、ひねもす付きっきりで看病するようになった。自分が見張っていない間も確実に勉強するようにと、私は学習塾に預けられるようになり、ファイル制作から解放された。私を担任する小学校教員たちも、私の制作する分厚いファイルを読み通して花丸を与えるという至極無駄な業務から解放された。余計な仕事を増やされてよっぽど辟易していたと思う。教師の立場があるので「そんなことはない」と言うだろうが、どう考えてもそんなことあるのだ。子供は大人なんかより巧みに相手の表情を読み取る。小学校三年生の時の、新任の担任教師の当惑の表情を覚えている。私だって提出したくてしてるんじゃない。花丸なんかいらない。いつも泣きそうだった。祖父の不幸は私の救いとなった。

 はじめに闇があった。時間が生まれるまではまだかかるだろう。生けるものは一つとしてないだろう。けれどわれわれは闇のなかに息吹いている。形もなく、すがたもない。何かが鼓動する音が、何かが鳴動する音に巻き取られて消え失せる。より大きなものに溶け馴染み、それがすべてであった。はじめに闇があった。すべては闇の混沌に溶けた。すべては闇の濁流に明け渡された。われわれは世界と一体であった。「光あれ」と、何者かが高らかに唱えたらとき、われわれはおのれを手に入れた。輪郭をもつ、指のぎこちない動き、瞼の痙攣、時間と運動。生命が発露する。輪郭をもち、この世界と切り離された時、われわれは耐え難い痛みを感じながらも、

 見様見真似で神話らしいものを書く。別に、こんなものいくらでも書ける。手癖で書ける神話を無数に書いた。やれと言われれば世界の起源について一週間で百のヴァリエーションを書けるだろう。すべて似たり寄ったりの、おもしろくもない世界の起源を。「神話を書く」とはそういうことを言っているんじゃない。書けと言われれば書くけれど、これはあなたがオーダーしてきたあなたの望む商品であって、私の書く神話ではない。

 「神話を書く」とはそういう意味ではない。世界の起源について書きたいわけでも、神々の遊びについて書きたいわけでも、火の神話を書きたいわけでも水の神話を書きたいわけでもない。聖書を書きたいわけでもなければ童話を書きたいわけでもない。説話も書きたくない。
 私がなぜわざわざ定義の曖昧なものを書くことの対象に充てたのか、なぜその語を使おうと思ったのか、私にとって神話とはどういった役目を果たすものなのか、この背景を理解しないだろう者、背景があるという発想にすら至らなかった者に「あなたに触発されて神話を書き始めた」と言われた時、その愛情表現は完全に私の逆鱗に触れて、私は黙ったままピクリとも動かずに怒り狂った。ものすごく深く傷ついた。その程度の気持ちで「神話を書く」と述べているのだと思われているのだ。発言者はこの怒りを知る由もない。すでに私の情を一切失っていることも。

 書いても書いても注文主の意に添わないそうで、試行錯誤するうちに正月休みの十日間が終わった。その後、注文された神話を使用する予定だった企画は没になったそうだ。ほっとした。私は二度と書いたものに点数をつけられたくない。褒められればこの上なく嬉しいが、褒められるために書いているわけではない。書いたものを好かれたいが、評価されるのは苦痛で仕方ない。書いたものを通じて私を好いてほしいが、評価されると死にたくなる。生き延びるためにギリギリのところで書いている。それすらわかってもらえない。私に気安く触れるな。私の人生に点数をつけていいのは私だけだ。ひどく疲れた。本当に、ひどく疲れ果てた。