メモ:ジェンダー・アイデンティティについていつも考えること

たとえば男性であれば「ペニスが生えている」「身体がゴツゴツしている」「戦いを好む」など、生物学的なものから社会規範的なものまでいくつかの「男性の/男性らしい特徴」を挙げることができる。

そのうち「これが欠けたら男性ではない」と言えるような「男性の本質を決定する唯一の特徴」は存在しない。また「100個のうち20個当てはまれば男性である」などとも言えない。

それでも人にはジェンダー・アイデンティティというものがある。ジェンダー・アイデンティティがないという人もいるが、ある人にはある。大前提として「ない」と感じる人が「ある」と感じる人のリアリティを否定してはいけない。逆もしかり。

いかなる特徴も「これが男性だ」という決定に紐づかないのだとすれば、人はどのようにジェンダー・アイデンティティを持ちうるのか。

いつも考えるのは「あたり」としての本質である。男性の特徴100個のうち20個以上当てはまったら男性であるとか、これさえあれば男性であると言えるような本質は言い当てられない。しかしそうした特徴の群れの「だいたいこのあたり」に自分自身との「合う/合わない」を感じるセンサーが人間には備わっているのではないか。それがジェンダー・アイデンティティと呼ばれるものなのではないか。

僕たちは「本質」という言葉を使うときに、無自覚に「唯一の核としての本質」あるいは「外縁を持った本質」を想像してしまっているのではないか。しかしながら「核」も「外縁」も言語によって構築された概念に過ぎない。それらを持たない「あたり」としての「本質」を考えることもできるのではないか。

ジェンダー・アイデンティティについて考える際に、いつも以上のような考えを巡らせてしまう。現代の医学ではいまだ発見されていないセンサーと、それと対をなす「あたり」としての性の本質がきっとあるのだと思う。

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