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静寂者ジャンヌ 22 大拙・才市・ジャンヌ

「静寂者ジャンヌ」シリーズ、
前回の補足を書いて、それで第一部を終わりにして、
第二部「子連れ静寂者の冒険」に入ろうと思う。

でも、前回からずいぶんと間があいてしまった。
なんだか、感覚がつかめない。

もう一度、前回の内容を、別のタッチで書いてみようと思う。
ジャンヌにとって重要な局面なので。

前回とあわせて読んでいただければありがたいです。

1 消滅=甦り


静寂者ジャンヌは、
長く苦しい〈夜〉のフェーズを経て、
主体的な自我意識がほどけ、
〈わたし〉の〈死〉に到り、
その〈死〉さえ意識しなくなり、
ついに〈消滅〉の境地に到達した。
ここが、ゼロ・ポイントだ。

〈わたし〉は、〈神〉という無限の海原に溶けて消える。

なくなった〈わたし〉は、なくなってこそ甦る。
〈わたし〉は〈わたし〉として甦る。

〈消滅〉は同時に〈甦り〉。

ふわーっと、ひらけた。

わたし〉は、からっぽ
〈神〉の、いっぱいいっぱい

なんにもなくて
なんでもある

わたし〉に、意識と対象がよみがえってくる。
でも、かつての自我意識ではない。
目前に開けている世界も、かつての分節世界ではない。

どんなふうに、違うのか?


2 新しい自由


前回と重複するけれど、あらためてジャンヌの自伝の該当部分を抜粋しよう。

それは幸せの日、
マグダラのマリアの日。
ぼくのたましいは
あらゆる苦から、パーフェクトに解放された。

……
   
ただただ驚くばかりの
ぼくがいた。
この新しい自由。
戻ってきたのだ。
もうすっかり失ってしまったと思っていたのに
戻ってきた。
しかも、かくも壮麗に、純粋に。
ぼくが得たものは
あまりにシンプルで
あまりに広大無辺で
表現のしようもない。


神よ
ぼくはあなたのうちに
失ったすべてを
再び見出したのです。
その様は、とても言葉になんて
できません。

Ce fut ce jour heureux de la Madeleine que mon âme fut parfaitement délivrée de toutes ces peines.
……
Je me trouvai étonnée de cette nouvelle liberté et de voir de retour, mais avec autant de magnificence que de pureté, celui que je croyais perdu pour toujours. Ce que je possédais était si simple, si immense, que je ne le puis exprimer. Ce fut alors, ô mon Dieu, que je retrouvai en vous d'une manière ineffable tout ce que j'avais perdu.

La  Vie  par elle-même

それにしても、やっぱり、美しい一節だ。

新しい自由。

これが、甦った意識と対象世界の感じ方だ。

かつてのような感じ方ではなく、
とてつもなく壮麗、純粋、シンプル、広大無辺。

ところで、前回を読み直したら、この部分、誤訳があった。(どうしてもうっかり誤訳があるし、日本語にならすために意図的にちょっと強引に訳しているところも多いので、参考のために原文も挙げておこう。)
前半の「……」以降、直訳すると「この新しい自由に、そして、もはや失ってしまったと思っていたものの回帰に、ぼくは驚いた(驚くぼくを見出した)」となるのだが、この「回帰」をする「もはや失ってしまったと思っていたもの」を、前回は、その直前の 「自由」のことと、うっかり思い込んでしまった。
しかし、回帰する「それ celui」(ひらたくして「もの」と訳した)は男性形なので、「自由 liberté」(女性形)ではありえない。
じゃあ、何が戻って来たのか? 「それ」って、何だ?
ジャンヌは、あえて、名指ししない。
そのあとも、「ぼくが得たもの(ce )」、さらに「あなた(神)のうちに、失ったもの(ce )をすべて再び見出した」(「すべて」は「まるごと」の意味)と、続ける。読み取れる人は読み取ってくれ、という風情だ。
実感として、それ・・としか表現できない、それ・・
今回は、日本語ならではの主語省略であしらってみた。


3 安−神


次を読もう。

ぼくの不安と苦しみは、ある安らい (paix) に変わった。
なんとかうまく説明するために、
それを〈あんしん(paix-Dieu)〉と呼ぼう。
たしかに、それまでの安らいも、
神の安らい、つまり神の恵みとしての安らいだった。
でもそれは、〈安−神〉じゃなかった。
〈安−神〉は神そのもののうちにあり、神のうちにしか見出せない。

Mon trouble et ma peine furent changés en une paix qui était telle que, pour m'en mieux expliquer, je l'appelle paix-Dieu. Je disais la1082 paix que je possédais avant ce temps était bien la paix de Dieu, paix don de Dieu, mais ce n'était pas la paix-Dieu qu'il possède en lui-même et qui ne se trouve qu'en lui.

それまでは、主体としての〈わたし〉が、〈神の恵み〉という対象としての安らいを得ていた。
しかし、〈わたし〉が〈神そのもの〉のうちに消滅し、主体がなくなると、〈恵み〉という対象もなくなる。
ただ、〈安ー神〉と言うしかない、主客のない無分別の安心が成っている。

静寂者ジャンヌの静寂は、この無分別の安心だ。

安心に染まってしまって、もう、安らいをすら意識しない。そんな境地だろう。

この〈安ー神〉の境涯は、妙好人として知られる下駄作りの職人、浅原才市を思い起こさせる。才市は妙好人としての日々の境地を、折々にメモした。純粋度が高い。すてきな詩になっている。鈴木大拙の紹介で知られるようになった。
たとえばこんな、なにげない一節がある。

ありがたいな、
わし・・や覚ゑず知らずにくらす。
自然の浄土に、これがいぬるか。

鈴木大拙「妙好人」法藏館(p.189)

「自然の浄土」のごとく、覚えず知らずにくらす。その漠として確かな「ありがたいな」の境涯・・・
キリスト者ジャンヌの〈安ー神〉の境涯を、真宗の才市が表現にしたら、こうなるのだろう。



4 自然な自由


ぼくはそれまでよりも楽々と、善いことができるようになった。
それは、とても自由で、
まったく気詰まりなこともなく、
まるで自然だった。

Toute facilité pour le bien me fut rendue bien plus grande qu'auparavant, mais d'une manière si libre et si exempte de gêne qu'elle semblait m'être devenue naturelle.

彼女にとっての「自由」は、結局、まるで「自然」なことなのだ。

自由、自然。

自ずと成る。

「覚えず知らず」に、自ずと、他者に善をはたらく。

鈴木大拙の「自由」に関する、こんな一節を思い起こす。

「自然」と同じく「自由」のの字の意味を、はっきり知っておかなくてはならぬ。このには自他対立の意義を含まないで、ただ一面のである。すなわち絶対性を持つであることを心得ておくべきだ。「自由」は、この絶対のがそれ自らのはたらき・・・・で作用するのをいうのである。それゆえ、ここには拘束とか羈絆とか束縛などという思想は微塵もはいっていない。すなわち「自由」は、積極的に、独自の立場で、本奥の創造性を、そのままに、任運自在に、遊戯三昧するの義を持っている。
 「自由」は、今時西洋の言葉であるフリーダムやリバティのごとき消極的・受身的なものではない。はじめから縛られていないのだから、それから離れるとか、脱するなどいうことはない。

「自由」の意味  in 『新編 東洋的な見方』(岩波文庫)or  『禅のつれづれ』(河出書房新社)


たしかに、ジャンヌの「自由 liberté」は、大拙の言う「西洋の言葉であるフリーダムやリバティ」とは違う。

まさに「任運自在」の自由だ。


さらに大拙は、才市を引用してこう書く。

妙好人浅原才市翁の方言まじりの表現を借りると「……どんぐり、へんぐりしているよ、今日もくる日も、やあい、やあい」である。何ともかとも、とらえどころのないところから出て来るはたらきは、遊戯ゆげ自在というよりほかない。

同上

どんぐり、へんぐりしているよ… ステキだ。

せっかくだから、この才市の詩の全文を紹介しよう。

「才市よい、うれしいか、ありがたいか。」
「ありがたいときや、ありがたい。
 なつとも(何とも)ないときや なつともない。」
「才市、なつともないときや、どぎあすりや。」
「どがあも しよをがないよ。 
 なむあみだぶと、どんぐり、へんぐりしているよ。
 今日も来る日も、やーい、やーい。」

『安心ー禅と念仏』(in 『新編 東洋的な見方』)
『「自由」の意味』と若干、表記が違う。

ありがたいときゃ、ありがたい。
何とものないときゃ、何ともない。

・・・このフレーズもいい。さらさらしている。


5 ひろがりゆく自由


はじめは、この自由はそれほど広がりがなかった。
けれど、進めば進むほど、自由が大きくなっていった。

Au commencement cette liberté avait moins d'étendue, mais plus j'avançais, plus la liberté devenait grande.

ここも、ジャンヌらしい。

ジャンヌの「自由」の特徴は、どんどん広がって、膨張していくことだ。

無際限の膨張感、加速度感。

それは、根源的〈いのち〉の無限躍動、
そのリズムだと言ってもいいだろう。

ジャンヌにとっての静寂は、この決して静止することのない、
動態的な自由のエネルギーの実感だとも言える。

おそらく到達者はみな、こうしたコスミック・エナジーと言うべき、無限エネルギーの充溢、爆発を内に実感するものだろうが、それにしても、ジャンヌはそれをなんと精確に、生き生きと文章化していることか。

進めば進むほど自由が大きくなっていく・・・これなんか、ものすごく抽象的な表現なのだけれど、どういうわけか実感がストレートに伝わってくる。ジャンヌの文章は下手とよく言われるのだけれど、(たしかに本人は上手い下手に無頓着だったろう)、でも、内的状態をピンポイント的に的確に突く、独特に達意な文章なのだ。


6 任運自在な自由


ぼくは、自己への執着もなく自己を振り返ることもなく、
あらゆる善をなしていたらしいのだ。
もし自己への振り返りが起きても、あらかじめ一掃されてしまう。
その思考に、まるでカーテンがかかって、それっきり現れなくなるみたいに。
ぼくのイマジネーションはしっかり固定され、もう、苦はなかった。
自分の精神の明晰さ、こころの純粋さに驚くばかりだった。

Il me semble que je faisais alors toutes sortes de biens sans propriété ni retour et s'il se présentait un retour, il était d'abord dissipé. Il me semblait qu'il se tirait comme un rideau qui couvrait cette pensée, et faisait qu'elle ne paraissait plus. Mon imagination fut entièrement fixée, en sorte que je n'en avais plus de peine. J'étais étonnée de la netteté de mon esprit, et de la pureté de mon coeur.

自分では意識せずに、おのずから、他者にはたらきかける。
自分では、善いことをしていると気づかない。
だから、「らしい」としか言いようがないわけだ。

この時のジャンヌは、すっかり自我意識がほどけ落ちている。
わたし〉は、ただ、〈神〉の意のままに、動かされている。
わたし〉は空っぽの運河。
その空っぽを、恩寵が流れて、他者にはたらきかける。
・・・よくジャンヌは、そう表現する。

任運自在!

さっき引用した、大拙の表現を借りれば、
ただ一面の
「自由」は、この絶対のがそれ自らのはたらき・・・・で作用するのをいうのである。

そういう、積極的な本奥の創造性

そのとき、精神は明晰、こころは純粋、驚くばかりだという。
ひろびろと、澄み切った境地だ。


ぼくはあまりに自由になったから、
たとえ何も感じなくても、
一日中教会にいることだってできただろう。
そして、教会にいなくたって、ちっとも苦じゃなかった。
どこにだって、
とてつもなく、広大無辺なうちに、それを見出すことができたから。
それはもう、ぼくのものではない。
その中に、ぼくは溺れて消えてしまった。

Je devins si libre que j'aurais pu rester tout le jour à l'église quoique je n'eusse rien de sensible; et aussi, je n'avais nulle peine de n'y être pas, trouvant partout dans une immensité et vastitude très grande celui que je ne possédais plus, mais qui m'avait abîmée en lui.

どこにだって、それを見出すことができた…
ここでも、「それ celui」であしらっている。
名指しできない、それ・・
「神」とか「神の現前」としたくなるところだが、そう言っちゃうと、もうその時点で違うのだ。

それ・・を「どこにでも見出す」というのは、
現象世界の分節的な個々を通して、それぞれに、
根源の無分節としてのそれ・・が、透けて見える
ということだ。
そう、解釈していい。
これについては、次回、詳しく見ていきたい。

何も感じなくても教会にいたっていいし、
どこにいたって、広大無辺…

この飄々とした、ふきっさらしの自由は、
先ほどの才市の詩:

ありがたいときゃ、ありがたい。
何ともなときゃ、何ともない。
なむあみだぶと、どんぐり、へんぐりしているよ。
今日も来る日も、やーい、やーい。

と並べて、味わいたい。



7  神秘主義的?


ああ、幸せな喪失。
それは脱魂状態(エクスターズ extase:エクスタシー) のような
一時的な喪失ではない。
脱魂は、喪失というより、むしろ一時的な忘我状態だろう。
たましいがその直後にふたたび戻るわけだから。
そうではなくて、恒常的、持続的な喪失。
常に、広大無辺な海に喪失していく。
ちょうど、小さな魚が無限の海のなかで、常に潜った状態で進むように。
でも、この比喩はあまり適切ではないかもしれない。
むしろ、こう言おう。
海のなかに放擲された小さな一滴の水のよう。
それは常にどんどん、海と同じ性質を持つようになる。

O heureuse perte, et d'autant plus heureuse que ce n'est point de ces pertes passagères que l'extase opère qui sont plutôt des absorbements que des pertes, puisque l'âme se retrouve sitôt après, mais pertes permanentes et durables qui vont toujours se perdant dans une mer immense, comme un petit poisson irait toujours s'abîmant dans une mer infinie. Mais la comparaison ne me paraît pas assez juste : c'est plutôt comme une petite goutte d'eau jetée dans la mer, qui prend toujours plus les qualités de la même mer.

幸せな喪失」・・・
それは神秘家の体験として一般に知られる脱魂現象(エクスタシー)のような
一時的、超常的な現象・心理とは違うのだと、ジャンヌは強調する。
そういったものを、ジャンヌは嫌う。
自分にはそういう体験はなかったと言う。

ジャンヌを神秘家、神秘主義者と呼ぶのは、やっぱりミスリードだろう。
彼女にとって最終的には、すべてがまるで「自然」で、ありのままなのだ。
(だいたい、本人は自分のことを神秘家と呼ばない。)

最後にもう一度、大拙を引用しよう。
晩年の大拙は、「神秘主義的」という言葉について、こう書いている。

ちなみに、自分はこの語を好かない。東洋的感じ方には「神秘」はない。いずれも眼前歴歴底(はっきりしていること)だ。

「東洋の主体性」in 『禅のつれづれ』

(これは、1965年、彼が亡くなる前年に、読売新聞の連載で書いた一節だ。
大拙は、英語では「神秘主義 mysticism」をキーワードにして、それをとっかかりにしてキリスト教と比較しながら、仏教の肝要を西洋文化圏に発信したことでよく知られる。1957年の『Mysticism: Christian and Buddist(『神秘主義』坂東性純・清水守拙 訳  岩波文庫)』がその結実の一つと言える。でも、大拙が語ろうとし続けたのは、あくまでも「神秘主義」のその先だったろう。)

大拙に倣って言うなら、ジャンヌの感じ方も「神秘主義的」というよりは、むしろ「眼前歴歴底」のくちなのである。

だからといって、ジャンヌが「東洋的」だと言ったところで詮ないけれど・・・
ただ、ジャンヌを通して、キリスト教そのものをいわば内側から、「東洋的」な視座で解体し、キリスト教的核心の一部分を抽出する試みは、グローバル化した現代において有意義だろう。もちろんそんな大風呂敷、わたしには広げられないが、そういう視点は必要だと思う。もっとも、「西洋」・「東洋」という言葉は、どうしてもイデオロギー・カウンターイデオロギー的な色彩が濃いので、そこは慎重でありたいけれど。

脱線してしまった。本文にもどろう。

海に放たれた水滴のように、恒常的・持続的に、どんどん〈無限〉と同質化していく…

恒常的・持続的というけれど、そんな「喪失」の状態で日常生活が送れるものか?
そうした素朴な疑問(というか、否定)は、当時からずっと、あった。

しかしそれは、到達者の境地を平面的にしか見ることができず、立体的に捉えることができないがゆえの無理解でしかないのだろう。

ここでジャンヌが言っているのは、到達者特有の、意識・対象の重層性のことだ。これについては、すでに説明したけれど、あらためて、まとめておこう:

(1)一方で、
わたし〉の深層意識では、無分節体験が成っている。
無分節な〈いのち〉のエネルギーを、意識の底で直覚している。
この体験は時間から脱しているので、
実感としては、
刻一刻と、無限に膨張していく。たえず無限と同質化していく。
そんなふうに、(ジャンヌには)直感される。
(これはきっと、厳密に言えば、ゼロ・ポイントから微妙に一歩降りたフェーズでの直感だろう。)

(2)同時に、
意識の表層では、日常の分節世界が見えている。
この分節世界は、意識の底で直覚している無分節の〈いのち〉のエネルギーが自己分節して、個々の〈いのち〉となって現れている世界だ。(個々に限定されているけれど、やはり無限の〈いのち〉なのだ。)

つまり(1)深層の無分節が(2)表層の世界を現出しているわけだけれど、
わたし〉は、そのプロセスを重層的に、包括的に意識している。
(「意識している」という表現は誤解を生むから、「〈意識〉している」と表現すべきかな。)
そして(2)のレベルでの日常世界では、ごく淡々と生活している。少なくとも、周りには、そのように見える。

そういう状態といっていいだろう。

以上、井筒俊彦の「分節ー無分節」モデルをもとに整理した。(このモデルが、わたしの知る限り、到達者の体験知を理解するうえで最も説得力がある。)次回、これに関連するジャンヌの手紙のいくつかを読み解いて行こう。それで、第一部を終わりにしよう。



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