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業だと思って一生付き合え

「けんさん一緒に岡山に取材にいきませんか?」そうメールしてくれたのはジャーナリストの堀潤さん。たびたび僕を取材に誘ってくれて一緒に現場に入っている。
 
昨年7月に西日本を襲った豪雨災害。7月15日岡山空港で待ち合わせてそのままタクシーに乗り込み堀さんのTwitterにヘルプが来ていた岡山県北区菅野の冠光寺池という現場へ向かった。話ではため池が決壊し生活道路が寸断され孤立していてどこも報道していない場所だという。
 
元々堀さんはNHK時代の初任地が岡山支局。思い出も一入。空港からタクシーを走らせるなり「懐かしいのぉ~」と言いながら遠くを眺めている。そりゃそうだよね。自分の愛着のある場所が今本当に大変なんだから。
 
30分ほどタクシーを走らせて現場について唖然。集落をつなぐ道が通行止めになっている。これは渡れない・・・しかも広大なため池。丁度近くでため池を眺めるおじいさんに話を聞いてみたら「ここからは渡れんのぉ。ほら向こうのほうからほそーい道があるからそっからならいける」とタクシーの運転手さんには少し待ってもらい指を指した方向へと向かう。


現地に住む方の声 


広大な池の対岸まで歩くと紅白の垂れ幕がかかった場所があった。そうか。新築祝いの垂れ幕だったのか。そんなめでたい時にこんな事になって大変だなぁ。この先がどうなっているかわからない道をひたすら歩いていると1人のお母さんに合う。ちょっと話を聞いてみると「この先に獣道のような細い道があるのでそこを通れば集落に辿り着きます」と言う。もう少し突っ込んだ話を聞いてみた。すると「今この滑落した道を舗装するのに色々と問題があって。わたしはそこまで詳しくなくて、もっと詳しい人が居るんですが。。」という。その日は茹だる様な暑さ。立ち話も日陰でないとつらいほどだった。
 
すると後ろから重い荷物も持ってゆっくりと歩いてくるご夫妻がいた。「あ!光本さん!光本さんなら詳しいから話が聞けるかも」と先ほどのお母さんから教えてもらい堀さんから声をかけてみた「すみません。ちょっとお話を伺いたいんですが。」事情に詳しという光本さんは「あぁ?」と不機嫌そうだった。これは憶測だけどその当時岡山の被災地の取材は一部に集中していた。この菅野のため池の報道が全くされていない状態でメディアへの嫌悪感もあったのかと思う。
 
「今の状況はどうなっとる感じでしょうか?」「僕は元々NHKの岡山支局におったんですよ。今はフリーなんですがたまたま僕のメールにこの場所が全然報道されとらんって話を聞いて来てみたんです」と光本さんに説明するとそれまで少し話したくなさそうだった光本さんの口から赤裸々に今の現状を聞くことになる。
 
「再三行政側へも掛け合ったんじゃが返答もない」「専門家の話ではこの滑落した生活道路を治すのに3~4年かかるという話で」「わしは建築業だから車を出せんと死活問題で」「買い物するにもこの細い険しい道じゃから夜は獣も出るし暗いし救急車すら入ってこれん」出てくる話はとても深刻な状況だった。
 
一緒に歩いて険しい道を歩く。本当に山道。高齢者は絶対無理な道。歩くこと40分ほど。光本さんの家に到着した。最後に光本さんから「この集落の人は本当に大変。とにかくたくさんの方に伝えてください。よろしくお願いします。」
 
帰りの新幹線で堀さんは既に動画を編集。次の日にはyahoo!ニュースの記事になり瞬く間に拡散され、その影響か地元誌がこの問題を取り上げ、堀さんの旧知の仲の岡山市議会議員の森山さんが派閥を超えて地元議員と協力。2日後にはあの険しく夜は怖くて通れない山道に光がともされるという驚くべき速さの対応をみせていた。

あれから8カ月.... 

3月10日(日)岡山市街の表町商店街で「マチナカギカイ」という街の活性化を若者おじさんで話し合うという会のファシリテーターに堀さんが呼ばれているという事で「けんさん。一緒に行きましょう!」とついて行くこととなった。会は無事終了。帰る飛行機まで時間があるという事で「その後菅野の冠光寺池はどうなっているんだろうね」とそのまま車を走らせた。
 
滑落した道路は現在も復旧中。まだまだ道半ばなのかと思いきや・・・裏の道に入った時に唖然。あんなに険しい道だった道路が現在は綺麗に舗装されて車で行き来できるレベルまで復旧されていたのだった。とにかく驚くべき復旧に車の中では「わー!!わーー!!!わーーーー!!!」の連続。あんなに険しい道を歩いていたのが今や・・・凄い・・・
 
2分もかからぬ間に懐かしの光本さんの家に到着。挨拶して帰ろうと。久しぶりの再会に照れながらも「道が治ったんですね」と。実は光本さんはあれからメディアに出た影響で立ち場的に「旗振り役」となり地域をまとめる為に大変だったそうだ。でもこんな言葉をもらえた。
 
「こんなことが起こらなければ地域の人たちの人となりも知らなかった。」

伝えるという責任

あの報道が無ければどうなっていたんだろう。誰もかもが無関心でそのままの状態になっている事もあるだろう。報道による影響で現地の方々に苦労をかけることもあるが当時、堀さんが光本さんに言われた言葉でとても心に残る言葉がある。「ここはもう大丈夫ですから堀さん次の現場に行ってください」。堀さんが以前こんなこと言ってたのを思い出す。「昔ね。先輩に取材の悩みを聞いてもらった時にね”取材は一回では終わらない。業だと思って一生付き合え”ってアドバイスをもらったことがあってね・・・」奇しくも今日は東日本大震災から8年目の3月11日。今日も堀さんは現場に向かっている。

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