「考えること」

考える 面倒くさい 決めること 
理由がある
考えることと性格 わからない 
苦しい   
最適な解 正解 

思考を止める       
トライ&エラー 
小学校算数 
諦めてしまう 
順序立てて考える 
仮説を立てる      
失敗しないようにうまくやろうとする       
同じ所でぐるぐるぐるぐる 
これが「考えること」について何か書いてみようと思い立ち漠然と思い浮かんだ単語です。

私は「考える」ことがどうも苦手です。思考を深めわかりやすく順序立てそれを伝える。「考える」ことは自分にとって難易度が高く、どういう風に克服してよいかわからず過ごしてきました。なぜ苦手になってしまったのか?どうすれば良いのか?ということを自分なりに考えてみたいと思います。

なぜこんなに苦手意識があるかというと子供の頃の出来事が影響していると思います。
幼少期はグズグズはっきりしない性格でよく怒られていました。周りの大人は怒っている感覚はなかったのかもしれません。いや、なかったと思います。ちょっと注意されただけで自分としては怒られた感覚がしてウルウルと涙目になってしまうという大人からしてみてはなぜ?そんなことで泣くのか?という扱いづらさがある子供だったと思います。涙もろさを見事にひきずる小学生低学年の頃、算数ができないことで親や先生に怒られることが多く、[間違える=怒られる] [怒られる=悪いこと] という図式が出来上がります。これを回避する為に「わからない」という答えを出しておけばとりあえず怒られる可能性が低くなるということを察し、それから考えなくなった様な気がします。ココが最大のポイント。しかし「わからない」と言うと「考えてないよね!」と見透かされてしまい「ちゃんと考えなさい」と言われる最悪の回避パターンに嵌ってしまいます。幼少期から小学低学年にかけて頻繁に怒られ、怒られる事を過剰に気にする性質を携えてしまったため 「これでいいのだ❗️」と自己肯定感の高いバカボンのパパに憧れる自己肯定感が低い性格に仕上がってしまいました。
試行錯誤する、何とか答えを出すことを諦めてしまって、すぐに正解を誰かに求めてしまうというパターンを繰り返して「考える」力というものを養ってこなかった。

薄っすらと気づいてはいましたがこのままではまずすぎると43歳という年齢になって私は超遅すぎる焦りを自覚し、焦りながらも遅すぎることはないと自分を慰めながら、深海よりも深いため息をつきヒントになるような本はないかと思い適当に何冊か読んでみる。ボンヤリと生きてきてこういう結果を招いていることを悔やみながら。こういう事ってもっと若い時にやっておくべきことなんだろうとかなり恥ずかしい気持ちはありますがしょうがない。ここはもう親と当時の担任の責任にしないと震えが止まらず正気を保つことができません。なにせ43歳なのですから。

考えることに関する本、文章化、言語化に関する本、スポーツ選手が出している本を数冊読んでみてどの本にも共通して書いてあることは「問い」を立てるということ。(問いをたてることによって考えるとはどういうことか?おっ!ここで考えてる?オレ考えてる?考えることを面倒くさっがていた自分が考えることの入り口にようやく立てた気がしました。)「抽象的」な問いではなく「具体的」に問うことが重要。そうしないと思考が同じところをグルグルと回り考えが先に進まなくなる。これを避けるために問いを具体化してなぜ?なぜ?を繰り返し問いを展開していく。そして問いを重ねることで思考が広がり多角的に物事を見られるようになる。ふむふむ。粘り強さが必要ですね。でも、こういうことって皆んなどうやって認識して自分のものにしていくのだろうか?そもそも習うことでもなく学校、仕事の経験を通じて認識を深めていくしかないのだろうか?ん?やっぱり私は問いが立ち始めている?

「問い」というものは考えるため、思考を深めるためのきっかけをあたえてくれる。考えることを放棄したらのちのち私のように苦しむことになるのではないかと思います。面倒くさがってはいけません。小さな問いから大きい問いまであらゆることを自問自答し続けることが考える力を養う唯一の方法なのかもしれません。





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