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50年代、レコード史に記述されない歌謡ムーブメントがあった。ヒップホップみたい(ラブソングの危機を考える9)

 日本の歌謡曲の歴史においてCGPが爆発するのは1960年代になってからである。このようなパフォーマンスは日本の伝統文化のような気が筆者はなんとなくしていたが、実に戦後20年近くも経てからなのである。たぶん高度経済成長と関係があるような気がするが、まず60年代以前の状況から追いかけてみよう。
 まず、50年代の歌謡シーンはどんな感じだったか。菊池清麿「日本流行歌変遷史」(論創社)によれば50年代歌謡曲は朝鮮戦争を背景にした戦争特需とともに発展していたとある。まず古賀メロディーの「トンコ節」「ヤットン節」('51)などが好景気とともにヒット。のど自慢ブームを経て1951年には第一回紅白歌合戦が始まる。1952年、日米安全保障条約が発効すると占領軍は駐留軍となり、米軍基地の規模は縮小された。こうしてこれまで基地を中心に活動していた日本人のジャズバンドは基地をでて、クラブやキャバレーなどの夜の社交場へ活動基盤を移していくことになる。そして日本に空前のジャズブームが起きる。江利チエミ「テネシー・ワルツ」('51)、雪村いずみ「想い出のワルツ」('53)、「青いカナリヤ」('54)、などのヒットでジャズの名称は市民権を得ることになる。このあと、ハワイアンとタンゴのブームがくる。もっともハワイアンは戦前から灰田晴彦、勝彦兄弟、ディック・ミネ、バッキー白片などの活躍ですでに定着していたものだったが、戦時中はスティールギターやウクレレなどの楽器が禁止されたため、いったん途切れる。戦後、50年代に復活するが、その歌謡化を確立したのは和田弘とマヒナスターズである。やがて彼らは60年代のムード歌謡を牽引していくことになる。
 同時にこの頃、タンゴのブームもあった。タンゴ歌謡はどういうわけか朝鮮戦争特需の前の、復興前のドサクサの時代からヒット曲が生まれだしている。藤山一郎「銀座セレナーデ」('46)、二葉あき子・近江俊郎「黒いパイプ」('46)、霧島昇「夢去りぬ」('48)、武山逸郎・藤原亮子「誰か夢なき」('47)などがある。まだ戦後の闇市の時代にハイカラなヒットがあったのはどういうわけか? この頃の流行歌の歌手は藤山一郎や近江俊郎のような声楽を学んだ、いわゆる歌のプロが朗々と歌い上げる、というものでCGPに見られる「やさぐれ感」のような要素が見られない。タンゴ歌謡は渡辺はま子「なつかしのブエノスアイレス」('54)、津村謙「待ちましょう」('54)のように50年代も順調にヒットを飛ばしてゆく。
 戦争特需の以降に現れたのは和製シャンソンである。まず戦後の日本のシャンソンは淡谷のり子、高英男からスタートするがこの50年代に新世代が誕生する。石井好子、越路吹雪、芦野宏、岸洋子、金子由香利などの登場である。この時代のシャンソン歌謡といえば灰田勝彦「東京の屋根の下」('48)、二葉あき子「巴里の夜」('51)、高英男「雪の降る町を」('53)となる。このように好景気を背景に歌謡曲は急速にモダン化、洋楽化していく。この50年代の洋楽風歌謡の歌詞は「雪の降る街を」に見られるような、いずれも意識の高い、いわゆる「上品」なものばかりである。この洋楽風歌謡のブームを支えたのは好景気ともうひとつの背景がある。ラジオである。ラジオはすでに全国的に各家庭に普及してはいたが、ラジオの民間放送がはじまったのは昭和26年、1951年のことである。まず文化放送の「S盤アワー」、ついで昭和29年、1954年に日本放送「L盤アワー」がはじまる。江利チエミや雪村いずみはこの民放ラジオという新しいメディアから登場した。そして洋楽風歌謡のサウンドを支えたのは先の基地の外へでた日本人ジャズバンド、「渡辺晋とシックスジョーズ」「ジョージ川口とビッグフォー」などである。この頃から音楽情報に地域差がなくなり、地方でも洋楽を聴くようになる。しかし、こう見ていくとたった数年後にド演歌やCGPのような「下品な」歌謡曲が爆発する余地などないように見える。無論、この50年代の「上品」ファシズムの時代にも「下品」は息を殺して好機を伺っていたのである。この上品なハイカラブームのさなかにまず、抵抗するように起こったのは浪曲のリバイバルブームである。


・浪曲ブームはレコード関係の資料には記述がない(下品カルチャーは記録が残りにくい)


 この50年代、全国的に浪曲リバイバルブームが起こっている。ただし、このブームについては先の「日本流行歌変遷史」や倉田喜弘「日本レコード文化史」や高護「歌謡曲」には記述がない。どういうことか。レコードを中心にした調査では見落としてしまうタイプのブームだったからである。
 浪曲のブームが判明するのはレコードセールスではなく、ラジオの聴取率によってである。私はこの浪曲ブームの存在を北中正和「にほんのうた・戦後歌謡史」(新潮文庫)によって知ることになる。
 民放のラジオ放送が始まるとタンゴやシャンソン歌謡などを尻目に、浪曲人気が駆け抜けてゆく。そしてラジオ聴取率において50年代半ばには人気が頂点に達する。関東では56年から58年にかけて聴取率ベストテンの上位3位がすべて浪曲番組となる。「浪曲天狗道場」「浪曲学校」「浪曲十八番」「浪曲名人席」といった番組が軒並みトップを記録したのである。わたしはここに、60年代にド演歌とCGPが爆発する素地があったと見ている。この、「なにがタンゴだ、シャンソンだ、どいつもこいつも上品ぶりやがってタコが、やっぱ日本人の心は浪曲よ」という反近代とも呼べる心情は、のちの演歌はもちろんのこと、80年代以降、強く長渕剛に受け継がれることになったと私は見ている。
 ただし、浪曲ブームは60年代に入ると急速に終焉を迎える。「それは60年代に「演歌」が登場したからです」とまとめると話は早いが、つぶさに見ていくとやはりそのような単純なものではないとわかる。というのも演歌は突然、「演歌」というジャンルとして我々の前に現れたのではないからである。ざっくりまとめると「演歌」は「反近代アウトロー心情」を抱えたさまざまなムーブメントを総括するようにして生まれた、と考えられる。その「さまざまな」というのは浪曲ブームであり、流しの歌手を中心とした「夜の盛り場で歌われた作者不明の歌」ブームであり、マヒナスターズ「お座敷小唄」の「遊里」カルチャーのお茶の間向けリバイバルである。これらの「レコード会社主導」ではない、またいずれも反社会的な感覚を含むムーブメントによって演歌は形成されていったと考えられる。
浪曲とはどういうものかはウィキペディアを読んでもらうことにして、ネットで調べてもなかなかまとまった記述がなさそうな「作者不明の歌ブーム」から解説していこう。
 この50年代の歌謡曲のメインストリームの動き、レコード会社とラジオメディアが主導した洋楽風歌謡とふるさと歌謡があったわけだが、アンダーグラウンドではうたごえ喫茶、うたごえ酒場を中心に「作者不明の歌」ブームがあったのである。「北上(きたかみ)夜曲」「北帰行(ほっきこう)」などがこの時期、うたごえ酒場などを中心に歌われ、やがてレコード発売されヒット、という作者不詳ソングの流行があった。(多摩幸子・和田弘とマヒナスターズ「北上夜曲」('61)、小林旭「北帰行」('61))これらのヒットの特徴はレコード会社の企画会議から生まれたのでなく、酒場というアンダーグラウンドからピックアップしたものであったという点だ。「夜の酒場で流行ってる歌がある」→「各レコード会社が競作でシングル切る」→ヒット、という流れがあった。いずれの曲もヒットしたあと、作者が現れ今では著作権管理楽曲となっているが、このヒットの背景には「作者不詳」という「無名の民衆から湧きでた純粋な歌」というストーリーを読み込んだうえでの、いわば左翼的なロマンティシズムで世間に受け入れられたフシが感じられる。これはのちの関西フォークが登場したときと同様の受容のパターンと考えられる。
 この作者不詳のヒットたちは戦時中、戦地で祖国を偲んで歌われた、という伝説がついているケースが多いが、私が興味深いのはのちのアウトロー系歌謡、「東京流れ者」や「網走番外地」などを経て、長渕「とんぼ」に至るアウトロー歌謡の基本コンセプトをすでに確立していることである。たとえば「北帰行」なら流浪する旅人がはかない希望を抱いて北へ北へと向かう、というもので長渕「とんぼ」の世界の源流を感じさせる。また、「北上夜曲」は一見、たわいない初恋の歌のように思えるが、異国で変わり果てた自分と故郷においてきた恋、との落差でセンチメンタリズムを生み出す手法など「網走番外地」と同じ論法ではある。いずれも世をすねたような、捨て鉢なアウトロー心情が描かれているのが従来のレコード会社主導のヒットとの大きな違いである。つまり、作者不明ソングブームとは、無名の民衆の手による「反・洋楽」「反・近代」「反・ハイカラ」抵抗運動であったと言える。なるほどこの2曲が60年代安保の左翼運動を背景としたうたごえ運動から火がついたのも反近代運動の一環だったと考えれば納得がいく。そう考えると出自は違えども、この数年前に起こった浪曲ブームと作者不詳ソングは受け入れられ方がよく似ているのである。ただし、作者不詳ソングは「とんぼ」系の自閉的アウトロー路線ばかりではない。田端義夫(バタヤン)が発掘したと言われる「島育ち」('62)、「ズンドコ節(街の伊達男)」('47)に代表される陽気な宴会ソングという側面もある。この手のものでは作者不詳ではないものの北島三郎「ブンガチャ節」('62)も数えられるだろう。宴会ソング系の特徴は軽いシモネタ混じりのパーティーソングであるという点である。

 「浪曲」「シモネタ」「アウトロー」。この3点セットは「批評されない日本の歌謡」の大きな幹となるもので覚えておいていただきたい。
 そしてこの「作者不詳ブーム」においてもっとも重要と筆者が考えている楽曲がある。これが現在まで受け継がれることになるCGPの大元であると。 1964年発表、和田弘とマヒナスターズ、松平直樹、松尾和子による「お座敷小唄」である。これは作詞者不明のまま、当時300万枚を売り上げる大ヒットとなった。次回はこの「お座敷小唄」から考える。いよいよCGPの本丸に突入である。つづく。

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