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『別府歴史の旅』#6「九州横断道路」

 「九州横断道路」は、別府国際観光港を起点とし、九州の中部を横断して長崎港へいたる観光と産業のルートです。横断道路の最初の提唱者は別府観光の父「油屋熊八」です。

油屋熊八(1863-1935)。愛媛県出身。1910年に別府に「亀の井旅館」(現:亀の井ホテル)を開業。自らを別府の外務大臣と名乗り、私費を投じて別府観光を内外に宣伝した。日本初の女性バスガイド、遊覧バスでの地獄めぐり、城島高原や別府ゴルフ場などの周辺観光地や九州横断道路の開発に尽力した。

油屋熊八については以下の記事にまとめています。

 昭和3年(1928)、別府-阿蘇-雲仙-長崎を結ぶ九州横断観光道路が将来の別府発展の中心課題であると横断道路の実現を熱心に提唱しました。

油屋熊八が愛した小田・山下の池を囲む高原。(昭和初期の絵葉書)

 昭和4年には「九州横断国際遊覧幹線期成会」を大分・長崎・熊本の代表者で結成しました。その時のプランに、この横断道路を主軸に大阪から瀬戸内海-別府-阿蘇-雲仙-長崎さらには、上海航路へとつなぐ国際観光コース構想があったそうです。

志高湖周辺の自然はやまなみハイウェイの売り物だった。(昭和初期の絵葉書)

 しかし、打ち続く戦争のためにこの計画は立ち消えとなりました。

 熊八の死後、昭和26年(1951)に県が別府・飯田線の改修を行い、これが発端となり、昭和39年(1964)に「九州横断道路」が開通しました。

昭和29年の起工式から10年をかけて、昭和39年に開通した「やまなみ横断道路」。
昭和42年、九州横断道路から見た小田・山下の池。

 「九州横断道路」は59年経った今でも交通量は増加しており、熊八が考えていた通りの発展を遂げています。

≪次回≫
『別府歴史の旅』#7
「別府球場」

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