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今日は昨日の繰り返しではない

嫌いな人間関係。
そんなものはどこのコミュニティにいても存在する。
それに遭遇する度に逃げ出していたんじゃキリがないのもわかる。
でも、この逃げ出したい気持ちはDNAに刻まれた本能なのかもしれない。

ついこないだまで仲間だと思っていた人が、
立場や人間関係などの環境が変わった途端に狡猾な牙を向けてくる。

言葉を信じるな。行動だけが真実というがまさにその通りのことが起きている。
人の本性は目では見えないのだ。
目に見えることが真実であることの方が少ないのかもしれない。

「考える」と「悩む」の大きな違いは、
何らかの結論に辿り着くことができるか否か。
つまり意思の及ばないことにいつまでも思慮を費やすのは後者である。
時間は1秒たりとも戻すことができないのに、それについて思索することはまさに「悩む」ことだろう。
さらに言えば非論理的な感情に任せた根拠のない迷いが悩むという行為である。

いま私は悩んでいる。
当然、答えも出ないし解決もしない。
みずからの意思が及ぶのであれば、どうしたら成し遂げられるかだけを考えたらいい。
みずからの意思がおよばないのであれば、後に残るのは感情を断ち切る行為だけ。

これを書いていたら気持ちの整理がついた。
私のような個は、社会において、宇宙において、単なる一つの歯車にすぎない。
草木やその他の動物と何ら変わりない存在なのにも関わらず、
人間であるというだけで全能であると勘違いしてしまうのだ。
意思の及ばない現実すら、もしかしたらどうにかできるかもしれないと
雲をつかみにいくような行為をしてしまうのだ。

もちろん、人類の歴史においてもほんの一握りの人々が雲を掴みに行くような努力を重ねたおかげで現在の文明が存在するのは紛れもない事実である。
しかし、私のような
机の抽斗を開けたり閉めたりするような仕事で生活しているサラリーマンは、
この限りではないのだ。


残された人生の時間をどう使うか。どう全うするか。
これは考えるべきことである。将来を思い描くのではない。
今できることを考えるのだ。
大それたことはできないかもしれないが、歯車なりにもがけることがあるはずだ。




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