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【出産レポ】29時間の出産に立ち会った夫の記録

2022年1月16日に第一子が生まれた。家に帰って1人で過ごす今でもあの出来事は夢だったのではないかとふわふわしている。それほど立ち会い出産は僕にとって衝撃的な出来事だった。

産院の記録で29時間、自宅で前駆陣痛が始まってからは45時間という平均よりかなり長い時間をかけての出産。妻には本当に感謝しかない。

ネットの世界を巡っても男性目線での出産レポートはほとんどないので、あの壮絶な1日(正確には2日)のことを振り返ってみようと思う。

なお、今回のレポートはネガティブな感情全てをその時感じたままに嘘偽りなく表現している。たまーに口が悪くなってしまっているのは許してほしい。

そして今後出産予定の方、何よりも立ち会い出産を検討している男性にはぜひ1家族の例として参考にしてもらえたらうれしい。

※これから出産を控えている妊婦の皆さんへ
このnoteを読むことで出産に対して不安を感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません…。しかし、ここに書いているのは僕たち夫婦のありのままのお産の記録です。こんな一例もあるんだという気持ちで読んでいただけたら幸いです。
僕たちのように時間がかかってしまうこともあれば、平均よりも短い時間で出産される方もいらっしゃいます。こればっかりはその時にならないと本当に分かりません。
ただ1つだけ言えることは、どんなお産にも必ず終わりがあるということです。
十月十日という短くもあり長くもあるこの期間、お腹の子供を必死に守り続けてきたご自分のことを信じてあげてください。絶対に大丈夫です。

深夜から始まった陣痛


ー1月15日午前3時30分頃

物音で目が覚める。隣を見ると妻がスマホを見ながら少し苦しそうな表情をしていた。
ちらっと見えてしまったスマホの画面にはタイマーが時間を計測していた。妊娠後期の方はほとんどの人がインストールしているであろう【陣痛きたかも?】アプリのタイマーだ。

妻によると1時過ぎくらいから若干不定期なものの規則的に1分ほどの痛みが続いているという。

ついにきたかと思った。その日は38週と5日。予定日まではまだ9日間ほどはあったものの37週以降はいつ陣痛が始まってもおかしくないので焦ることはなかった。

元々14日である前々日におしるしっぽいのがあった。おしるしが来てから陣痛が起こるまでは人によって違うとのことだったがまさか翌日とは。想像よりは早かった。



ーー1月15日午前4時頃

寝るには辛い痛みだったので2人で起床してリビングへ。まだ暗かったので電気をつけ、寝れそうだったら寝ようという話に。
陣痛の痛みは少しずつ強くなっていたので、陣痛がきたらテニスボールを尾骨に当てながら一緒に深呼吸を繰り返す。を続けていた。



ーー1月15日午前8時頃

余った食材で作ったマルゲリータ風トースト


日が登ってくる。寝れる時に寝ようと話していたが、まとまって睡眠をとるのは無理そうだとお互いに悟ったので動くことに。
妻は入院バッグの中身の確認、そして僕は陣痛バッグの中身の確認と朝食を作ったりしていた。
この時はまだまだまばらで10分以内に来ることもあれば30分以上来ないこともあり、本当に陣痛なのかな?とお互いに首を傾げることもあった。
それくらい初めての陣痛は分かりづらかった。



ーー1月15日午前12時頃

妻の食欲はいつも通りありそうだったことと、お昼頃になると陣痛の感覚が50分空くような時も出てきたのでとりあえずお昼ご飯を作ることに。
なんとなく夜には産院に行くことになる予感がしていたことと、使わないといけない食材を考慮してエビマヨを作った。

思い切りで作ったエビマヨ。美味しかったけどくどかった。

高カロリーだけど出産に向けてならちょうどいいかと言い聞かせながら作った。美味しかった。
この頃はまだまだ僕も妻も余裕だった。



ーー1月15日13時頃

若干陣痛がしんどくなってきたように見えてきた。12時間も続いてる。無理もない。
この頃から最近出産した妹に電話して陣痛当日の動きなどを聞き始める。同級生の子を持つ友達にも連絡を取る。ネットで調べるよりも経験者の声を聞いて今の状況を理解したかった。

一度産院に電話をかける。妻に代わってほしいと言われ妻が症状を説明したところ、もう少し自宅で様子を見ることに。とにかく陣痛が起こったらその間妻の尾骨にテニスボールを当てるということをし続けた。

妹が陣痛直前でも外食をしていたと話していたので、最後の晩餐外食もありだなと思い妻の食べたいものを聞いたら「けんから(僕が作る唐揚げの呼称)が食べたい」と返事がきた。外食じゃなくてもいいのか。うれしいけど。めっちゃうれしいけど。
というわけで鶏肉をさっと解凍して下味をつけて冷蔵庫へ。



ーー1月15日16時頃

少し寝れる余裕がありそうだったので、ベッドに入ってしっかり寝ようかということになった。陣痛は相変わらず12~15分間隔できていた。
2人でベッドに入り陣痛の治まった間を抜けて仮眠を取る。妻は少しだけ寝れていたものの、僕はこんなタイミングで16:00~18:00に大事な宅配の配達依頼をしてしまい結局起きていた。



ーー1月15日17時20分頃

宅配がきたので受け取る。夕食は早めにした方がよさそうだと思いそのまま起きて夕食の支度へ。


16時間後、ついに本陣痛へ


ーー1月15日17時45分頃

唐揚げを揚げ始めると妻と友人と僕のグループLINEに妻から連絡が。陣痛の感覚がいきなり5分になったとのことだ。すぐに寝室に行ってテニスボールを当てにいきたかったものの、目の前には揚げ始めたばかりの唐揚げが。

後ろ倒すほど妻が夕食を食べる余裕がなくなってしまうと思い、心を押し殺してひたすらに唐揚げを揚げる。



ーー1月15日18時15分頃

これは当日揚げきれなくて漬けたままにしていた残りの唐揚げ(翌々日に1人で食べた)


夕食の唐揚げができる。(写真撮り忘れた)妻を呼んでできる限り食べようとしたが陣痛の痛みがかなり辛そうな上に感覚が短い。
それでも合間に一生懸命食べてくれて、美味しいと言ってくれた。産後にまた作って好きなだけ食べてもらうと誓った。(この日のメニューめっちゃ高カロリーだけどいつもじゃないからね!)



ーー1月15日19時頃

どう見ても昼間とは様子が違ったことと、5分間隔の陣痛が続いていたのでもう一度産院に電話をすることに。すると、一度検査してみましょうかとのこと。
慌てて荷物を準備した。これでもし入院になったら次の日までは帰って来れなさそうだ。揚げ物をしたコンロ周りをチェックしつつ妻を乗せて産院へと向かった。


産院で始まるお産の準備


ーー1月15日20時頃

産院に到着する。コロナの影響で一緒に通院ができず、いつも入口まで車で送ることしかできなかったので、初めて産院に入った時は少しだけ嬉しかった。
そのまま待合室で抗原検査を1人ずつ受ける。陰性だった。1ヶ月ほどほぼ自宅にいたし妻以外の人と会うことはなかったので、大丈夫だとは思っていたもののなんだかんだドキドキした。

妻は会話できる余裕はあるものの、陣痛が始まると苦しそうだった。これでお産が進んでなくて返されるなんて考えられないと思った。

その後担当の助産師さんがきて4階の診察室へ。


ーー1月15日20時15分頃

診察室でNSTという機械で陣痛のレベルをチェックする。画面上で2つのグラフが動いていて、上は胎児の心拍数、下は陣痛が起こると数値が上昇するようだった。妻が痛がり始めた時に下のグラフの数値が100に。絶対入院だと思った。

絶対必要だろと思って買っていたペットボトルホルダー

ついにきたかと思い、僕は陣痛バッグに入れていたペットボトルにホルダーを取り付け、自分のズボンの右腰あたりに水を、左腰あたりにポカリスエットをセットした。そしてキャップを外し、ストローキャップを取り付けた。
妻にいつでもさっと飲み物を出せるようにするためだ。

内診の結果、子宮口が5cmほどに開いていてすぐに入院することになった。

そのまま少し隣にある分娩室へと移動した。僕たちが通っていた産院ではフリースタイル分娩という出産方法を取り入れていて、分娩台がなく14畳くらいのスペースに布団と大きめのクッションが置かれている部屋でお産をするというものだった。

自宅にいるかのように過ごして、オキシトシンという幸せホルモンを出すことが大事と両親学級でも言われていた。

ちなみに部屋について荷物を置いた後誰にもバレないようにペットボトルホルダーを外した。毛ほども役に立たないことを悟ったからだ。絶対枕元に置いておいた方がさっと出せる。ホルダーに関しては完全にミスった。すみません。



これからお産が始まる。緊張しながらも記念用のカメラなどを取り出し妻と動画を撮る。まだこの時は2人にも余裕はあったような気がしている。時間は21時前。今日中は難しいかもしれないけど、本陣痛が17時ごろからだったから長くて16日の朝方くらいになるかなと考えていた。
出産していた周りの友達も安産の人が多くて、妊娠期間中も平穏に過ごせていた(妻の雰囲気や言動からもそう感じる)のできっと大丈夫!という根拠のない自信でやり切ろうとしていた。




しかしこの後、一生忘れることのない壮絶なお産が始まる。





ーー1月15日22時頃

妻の陣痛がどんどんひどくなっていく。陣痛が始まるととても苦しそうな唸り声を上げながら、息を必死に吐いていきみ逃しを行っている。最初は助産師さんがついてマッサージをしてくれていたので、自分にできることが全然なかった。
挙句には助産師さんからは「これから時間かかると思うので、夫さんは序盤である今のうちに寝て体力つけた方がいいですよ。どちらかというと妊婦さんより立ち会う人の方がバテちゃうことが多いので」

と言われ、自分用の簡易布団も敷いてもらった。悩んだもののあまりに自分にできることなかったので、助産師さんのアドバイスに従おうと思い、妻に断りを入れて布団に横になる。

しかしダメだった。妻の苦しそうな声が10分もしないうちに聞こえてくる。助産師さんがいたとしても心配でたまらない。結局寝れずに起きて妻の横につく。陣痛の間頭を撫でたり、一緒に呼吸したり、なんとかリラックスできるように模索した。



ーー1月16日0時頃

あっという間に日付は超えてしまっていた。

妻の苦しそうな声が定期的な感覚で聞こえてくる。この頃から助産師さんは僕に尾骨の抑え方を教えてくれた後、分娩室から離れる時間が増えた。
必然的に2人だけになる時間が増える。妻の苦しそうな声を聞く度に心配でたまらなくなる。

「自分が不安になってちゃダメだ、この時間には必ず終わりがくる、自分がちゃんとしなきゃ」


こんなことを念力のように唱えながら、妻の尾骨を押し続けた。
もう一方の手で背中をさすり、妻の呼吸に合わせて大げさに息を吐き、吐く呼吸を意識してもらえるようにした。
妻は定期的に息を吐いて声を出すので唇が乾燥してくるので、唇をチェックして都度リップクリームを塗った。
水分を取ることが大事だと助産師さんが言っていたので陣痛の合間の飲めそうな時に水を飲んでもらうようにした。
エネルギー補給用のウィダーもいつでも渡せるようにした。


・・・・自分にできることがあまりに少ない。
この10ヶ月間感じていたことだが、改めて出産の過程における男の無力さを思い知った。



ーー1月16日2時頃

相変わらず妻は辛そうだ。妻の左手には点滴が刺さっている。妊婦健診の時にGBSという検査が陽性になってしまったから、出産時にはこの点滴を打ち続けなければいけなかった。薬の切れるタイミングで助産師さんが定期的に点滴を変えにくる。
これまでの人生で一度も点滴をしたことのない僕は、その光景も痛々しくて見るのが苦しかった。

産院にきて6時間ほどが経つが出産が進んでいる様子はない。助産師さん曰く、胎児の頭の先にある羊水が風船のように詰まっていてまだ胎児が降りれていないとのことだった。破水したらぐっと進むらしい。それまではひたすらいきみ逃しをして耐えなければいけない。

相変わらず自分がやれることの少なさに無力さを感じながらも、陣痛を進めるために妻をお風呂に入れたり姿勢を変えるのを手伝ったりしていた。



ーー1月16日3時頃

津波警報のアラームがものすごい頻度で鳴り響く。最初は心配していたもののずっと同じ通知が表示されていて、これ本当に今危険なのか?と疑問に思いながらも放置。
しかしあまりにうるさく妻の心臓にも悪いので調べた上でアラームの音を消すことに。
(結局神奈川県の通知はエラーだったからめっちゃ鳴り響いていたらしい。ふざけんなよおおおおおおおおお!!!!!)



ーー1月16日5時頃

朝になってしまった。そして妻の本陣痛が始まってから半日が過ぎてしまった。妻は5分に1度襲い来る陣痛に悲鳴をあげる。進んでいる様子も全くない。

助産師さんは定期的に胎児の心拍を確認したり、妻の血圧や体温を測りにきてくれるものの、お産の状況については教えてくれない。
聞かれたら答えるという形なのだろうとは思ったが、それで進展ゼロですなんて言われたら妻のメンタルに響いてしまいそうだったので聞けなかった。



ーー1月16日9時頃

相変わらず状況が変わらないまま。夜勤担当だった助産師さんが日勤の助産師さんに代わる。
妻もかなり弱ってしまっている。陣痛がきて叫んだあとに憔悴しきった症状で呼吸を整えている。たまに寝てるようにも見えるが陣痛に起こされてしまう。

眠くて寝たいのに激しい痛みで起こされる。もはや拷問に近いと思ってしまった。代わってあげたいけど代われないのがもどかしかった。

陣痛の合間に「お産 長引く」とか「陣痛 進まない」「初産 時間がかかる」など今の状況をひたすら検索にかけ始める。すると30時間かかったという方の体験談などが出てくる。ひたすらに目を通して今の状況がその体験談に近いのかなど調べていた。

お風呂もこのくらいの時間に再び入ったものの、お産が進んだような雰囲気はなかった。

産院からは朝食のおにぎりなどを出してもらえていたものの、食欲が全く出ず、食べることができなかった。



ーー1月16日11時頃

全く状況が変わる気配がない。妻は5分に1度くる激痛に耐え続けている。
僕は水を買い足しストローホルダーを付け替え、妻に水を飲ませる。この頃から助産師さんに尿の出が悪いと伝えられるようになった。

お産にあたっては尿がしっかり出ることが陣痛を促すために大事だという。水は定期的にあげてはいたものの、尿意も起こらなかった。

時間がかかっている方なのか、お昼過ぎごろに一度院長が診察に来るとのことだった。この時お願いだから何か進捗があってくれと強く願った。


ーー1月16日12時頃

院長がくる。機械を持ってきて胎児の様子をチェックする。すると顔が横を向いていてまだ子宮から出る時の構えをしていないこと、そして頭の上にはまだ羊水が溜まっていることが分かった。つまり進展がないということだ。

それ以上は深くは言わず、この場所で自宅のように過ごしましょう、そしてオキシトシンを出しましょうとのことだった。メンタルが疲弊しきっていた僕の心の中の碇シンジくんが「そんなこと、できるわけないよ!!!」と叫んでいたもののグッと押し殺した。

他の産院の場合はもしかしたら促進剤を使ったりしていたかもしれない。しかし僕たちの産院はギリギリまで自然な出産を目指す方針だったため促進剤の話すら出なかった。
「人間本来のお産を大切にする」通院当初はこの考えがとても素敵だと思っていたが、ここまで辛そうな妻を見ていると選択を間違えたのではないか、促進剤を使った方が妻は楽になるのではないかと考えてしまうほど追い込まれていた。



ーー1月16日13時頃

陣痛がきたことを伝えていた妹や母に、お産が長引いていることを伝える。
自宅で陣痛が始まってからは36時間が経過した。僕も妻も全く寝れていない。日中は陣痛が弱くなってしまうと助産師さんが言っていたものの、妻の痛がり方は夜中と全く変わらなかった。これで弱くなっていると言えるのか。

助産師さんは必要な検査をするとその場を離れていく。
これまで何百人ものお産をサポートしていて、この状況も助産師さんにとってはもちろん経験していることだとは分かっている。
だけど精神的に参り始めていた僕は、そんな助産師さんの冷静さが少し怖くなっていた。


出してもらったお昼ご飯もおにぎり1つだけ無理矢理口にしてみたが、吐きそうになった。それ以上は食べることができなかった。

妻が少しだけウィダーを飲めそうと言ったので、一口ずつ感覚を開けて飲んでもらった。


自分に限界が訪れてしまう


ーー1月16日15時頃


ついに精神が限界を迎えた。


目の前には苦しみ続ける妻の姿。
5分に1回耳に響く最愛の人のこれまでに聞いたことのない悲鳴。
今までに見たことがない憔悴しきった表情。
何もしてあげられない。
代わることもできない。
水を飲ませて汗を拭いて、助産師さんがやっていたマッサージを見様見真似でして。
一緒に深呼吸して。乾燥したらリップを塗って。
そんなことしかできない。そんなことをしても妻の苦しむ声は変わらない。
この状況に終わりが見えない。

妻の左手に刺さる点滴の針を見て、苦しむ表情を見続けて、叫び声を聞いて。このまま妻がいなくなってしまったらどうしようという不安が頂点に達する。

気づいたら陣痛に耐え叫ぶ妻に大丈夫だよと言いながら泣いてしまっていた。涙が止まらなくなっていた。

妊娠してからの10ヶ月間の楽しかった思い出は頭の片隅に追いやられ、妻の苦しそうな姿だけが脳裏に蘇える。


つわりに苦しむ姿
食べたいものが食べれなくなる姿
膨らむお腹の影響で歩きづらそうにしている姿
尾骨を痛そうにしている姿
恥骨が痛くて抑えこんでいる姿
浮腫んでしまった足
靴下を履きづらそうにしている姿
強くなる胎動に苦しんでいる姿
細切れ睡眠でまともに寝れなくなった姿


これまでもどれだけ家事をしようがマッサージをしようが妻の負担を100%カバーすることはできず、申し訳なさと無力さを感じ続けていた。目の前の光景はこれまでとは比べ物にならないほど"無力な自分"を突きつけてくる。


一緒に子供を授かると決めたはずなのに、
どうして妻だけがいつも痛くて苦しい思いをし続けなければいけないのだろう
どうして僕の体は何も変わらないのだろう
どうして僕には子供を産む機能が備わっていないのだろう
どうして代わってあげられないのだろう



そんな言葉が頭の中をぐるぐると回り続け自分を責め始めた。子を授かるという選択をしなければ妻はこんなに苦しまずに済んだのではないか、そんなことまで考えてしまうほど36時間起き続けていることによる睡眠不足と、先の見えない不安の力は凄まじかった。


心臓が痛い。何かに強い力で捻じ曲げられているような強い痛み。心が痛い。妻の方が痛いはずなのに。このねじ切れそうな心の痛みに耐えられそうにない。

このまま妻の横にいると逆に足手まといになる。そう悟った僕は助産師さんに妻を見てもらうようにお願いし、一旦駐車場に停めた自分の車に戻った。

そして鍵を閉めてすぐに、これまでにないほどの大声で泣いた。とにかく自分の感情を涙と奇声と共に吐き出した。

妻と子を失ってしまうのではないかという不安
何もしてあげられない自分の無力さ
終わりが見えないことへの恐怖

とにかく自分の中の負の感情をぶちまけた。

5分ほど経ち、心を落ち着かせてから(今思うと全然落ち着いてなかった)再び妻の元へ戻った。状況は変わっていなかった。



ーー1月16日17時頃

日勤の助産師さんと夜勤の助産師さんが交代となった。また1からコミュニケーションを取らなければならないと思うと、仕方のないことではあるものの多少不安だった。
だけど助産師さんは冷静に状況を見極めてくれて適切な処置を常に取ってくれる。そんな不安はすぐに消えた。
交代後に内診で様子を見てくれたものの、まだ状況に変化はなさそうだった。


前を向くと誓った午後18時


ーー1月16日18時頃

最初の限界から間髪入れずに2度目の精神的な限界が訪れる。産院の陣痛計測からも24時間が過ぎてしまったからだ。
妻も声が枯れてしまい、かすれた声で叫んでいる。
ネットで調べた初産の平均時間なんてとっくに超えている。さらに調べると帝王切開や誘発分娩など他の手段を取る産院もあると出てくる。

自然分娩にこだわりすぎて妻も子もいなくなってしまったらという不安が頭をよぎり、再び涙が止まらなくなってしまう。
助産師さんに妻をお願いして再び分娩室を離れる。

今度は思い切って助産師さんに今後の展開を聞くことにした。
妻を見てくれている助産師さんに聞いてしまうと妻のメンタルにもひびきそうだったため、ナースステーションにいたもう1人の助産師さんに尋ねた。

憔悴しきった状態で質問をする僕に助産師さんは優しく答えてくれた。

・定期的に胎児の心拍を見て無事を確認している
・子宮口は7~8cmと少しずつ開いている
・妻は出産のために10kgほど体重が増えているので、1日や2日仮にまともに食事ができなくても乗り越えられる体力を持っている
・初産で30時間ほどかかってしまうことは珍しいことではない
・自然分娩が難しいケースはしっかりと見極めて動けるようにしている
・昼間は陣痛が治りやすいが夜になると一気に進む可能性が高い

とこちらが心配していたことをわかっているかのように全て具体的に教えてくれた。そして最後に「奥さんのことが心配だと思うけど大丈夫ですよ」と添えてくれた。その言葉に心が救われ、恥なんて一切考えず(そんな余裕もない)ナースステーションの前で声を上げて泣いた。



ーー1月16日18時30分頃

助産師さんの言葉を信じることに決めた僕は、気持ちを切り替えるために一旦産院を離れて最寄りのローソンに向かう。気合を入れるためにエナジードリンク"MONSTER"と、妻が好きなチョコレートのシュークリームとアイスを買う。シュークリームとアイスは食べれるかわからなかったけど、クリーム1口でも舐めて糖分が補給できればいいと思って買った。

助産師さんのおかげでメンタルがリセットできた。正直助産師さんに声をかけるまでの自分からはオキシトシンは全く出ていなかったと思う。

妻と子を信じて自分のできることをし続ける。必ずお産には終わりはくる。
大丈夫。今日必ず生まれる。自分にそう言い聞かせながら分娩室へと戻った。

妻は変わらず苦しそうにしていたものの、自分の精神状態は大きく変化していた。妻の力を妻以上に信じる。自分にできることはただそれだけだ。
とにかくそのことを脳内で唱えながら汗を拭き水を渡し、一緒に呼吸を続けた。


ーー1月16日19:00頃

採尿をするために助産師さんが部屋に来る。採尿の間だけ退出する。部屋を出てすぐ横にあるソファに座って妻の無事を祈り続けていた。
すると、採尿を終えた助産師さんに呼ばれる。

部屋に入ると「子宮口が全開まで開いたのでもう少しですよ」と言われた。




事態が一気に動いた。




ーー1月16日19時30分頃

陣痛をさらに進めるため、シャワーを浴びることを提案される。
妻は痛む身体を起こしながらなんとかシャワーを浴びにいく。
シャワーを浴びながらも襲いくる陣痛に叫び声をあげる妻。

しかし先ほどのように不安に押し潰されることなく、絶対に今日中に生まれると信じ続けられていた自分がいた。
あと少し。絶対にあと少し。



ーー1月16日20時頃

布団に戻り、妻はクッションに四つん這いでもたれながら陣痛に耐える。
僕は妻の正面に座り一緒に呼吸をしながら汗を拭き、合間に水を渡した。
助産師さんは子宮口の様子を確かめながら尾骨をマッサージしてくれている。
とにかく自分にできることをやり続けた。
あと少し。絶対にあと少し。



ーー1月16日21時頃

ついに破水する。胎児の頭の方にあった水がドバッと出たという。ここから一気に進みますよと助産師さんが言う。
汗を拭きながら、一緒に深呼吸しながら、ひたすら妻にもうすぐだよと言い続ける。
あと少し。絶対にあと少し。


ーー1月16日21時20分頃

妻の体制は横向きになってクッションを足で挟み、子宮が開きやすい姿勢へ。助産師さんが子宮口を覗くと、髪の毛の一部が見えてると僕達に伝えてくれる。
もう1人の助産師さんが生まれた時のための準備を始めているのをなんとなく察した。
最後の激痛に耐え続ける妻の手を握りながら、「もうすぐ…もうすぐ…」と唱え続ける。


ーー1月16日21時45分頃

妻が突然「挟まってるーーー!!」と叫ぶ。胎児が産道を進んでいると体に挟まっている感覚があるという。
突然の叫びに正直すごくびっくりしつつも、ひたすら祈り続ける。既に泣きそうになっていた。
陣痛のたびに少しずつ産道を進む胎児。僕は妻の手を強く握り、祈るように呼吸を続けた。





そしてーーーーーーー


「頭が全部出ましたよー」と助産師さんが話しかける。
タオルで隠れていて妻のお腹から先は僕からも見えない。だからどういう状況かは全くわからない。だけど、助産師さんの声のする方から人の気配を感じた。

しかし、ドラマで見るような出てきたらすぐに鳴き声が聞こえると思ったら聞こえない。

その後すぐに、小さくか弱い声で「あ」と言う言葉が聞こえた。


そして泣いた。僕が。堪えきれずに嗚咽するみたいに泣いた。そこにいると分かったから。

その後、もう1人の泣き声が部屋の中に響き渡った。


ついに出産


ーー2022年1月16日22時2分


第一子が生まれた。産院の記録で29時間。自宅での陣痛開始からは45時間という難産だった。
生まれてすぐ泣くのをためらいフェイントをかけた我が子は、一度泣き始めたら見事なマスターボリュームで泣き続ける。

最初はみんなかわいいねと言っていたものの、あまりのボリュームと余韻に不思議な空気が流れていたのを覚えている。どんだけでかい声で泣くねん君は(笑)。


妻は疲労と安堵が混ざったような表情で子を見つめていた。
(本当に本当に本当に×この世界で表現できる最大の数字)
頑張ったね…と再び涙が溢れた。

これほどまでに"ありがとう"という五文字ではおさまらない感謝の思いは人生初めてだった。
妻がいなければ最愛の我が子に出会うことはできなかった。
僕はとにかくありがとうと言い続けた。


ーー産後ケア(ここからハイになっていて時間覚えてない)


生まれてすぐに妻の胸にうつ伏せで乗せて体温で温める。
妻の胸の上でも泣き続けている我が子。そして間髪入れずに妻が一言。


"うんちした"


妻のお腹付近を見ると少量の茶色いうんちっちが散らばっていた。



いやいきなりすぎん?(笑)





29時間めちゃめちゃ心配してたんよ我々は?



マイペース全開ね君??生まれてすぐママの胸の上でうんちっちする赤ちゃんなかなかいないよ??

うんちっちとママの体温で満足したのかすやすやし始める我が子

マイペースすぎるお子に肩の荷が全て降りてしまった。


我が子はその後もすぐにおっぱいを飲んでいた。
生まれる前までは母乳は出ていなかったので助産師さんにあげてみましょうかと言われた時は出ないと思いますよーと2人で話していたのに出た。

生まれた瞬間母乳が出た。女性の体は凄すぎる…。


ーー胎盤が出る

我が子が生まれて10分くらい経った後に胎盤が出てきた。胎盤は内臓だからグロいのとか血が苦手な人は見れないかもと事前知識を得ていたものの、問題なく見れた。ちょっと前にNetflixでバイオハザードとイカゲームを見て血に耐性をつけていたからかもしれない。何より妻と子を守り続けていた大切なものだからこの目に焼き付けておきたいという気持ちの方が強かった。

だけどそのデカさに驚いた。そりゃ50cmの胎児が入ってるんだから大きさは必要だと思うけど、妊娠してからこれ作られるの!?こんなに立派で綺麗なのに1回しか使えないの!?って思ってた。心の中で。

胎盤が出て診察を終えたことで分娩3期を終え、本陣痛から29時間に及ぶ長い出産を終えた。


初めての抱っこ

うれしさと不思議さが入り混じってた

妻のカンガルーケアを終えた後、2時間ほど一緒にいられたので抱っこをさせてもらうことに。生後30分ほどの赤ちゃんを抱くという初めての経験。

ついに会えたね...!という感動する自分と本当に自分の子が生まれたんだ...という実感しきれていない自分がいて矛盾に近い感情が不思議だった。

ただ最終的に感じたのはただただ"愛おしい"だった。
何があってもこの子を守りたい。そして一緒に成長したい。
睡眠不足でほぼ回ってない頭でそんなことをぼんやり考えていた。

この写真尊すぎる…。

その後僕も服越しにカンガルーケアをさせてもらった。
我が子が居心地がいいと思ってくれたのかどんどん左にずり落ちてくる。
僕も自分の胸に乗っている子の温もりが心地良過ぎて、いつの間にか気を失っていた。寝たというより気絶だった。

その後妻と子は入院の準備に入り、2人とはしばしのお別れとなった。(コロナのせいで面会できない2年も引きずってデルタとかオミクロンとかもうなんなんマジファッキンコロナ)


壮絶な出産を終えて


僕たち夫婦の第一子の出産は想像を絶するものだった。
ネットや書籍で調べて組み立てた想像なんていとも容易く崩れ去り、精神と戦い続けた45時間。
今思うときっと安産だ、大丈夫と言い聞かせていたのはお産が長引くかもしれないという可能性から目を背けたかった。妻に命の危険があるかもしれないということを絶対に考えたくなかったという逃げでもあったと思う。自分が当事者になれないから楽観的視点に傾くことしかできなかった。そこは反省しなければ。

育児は思い通りにいかないというのを、早くもお産の段階で痛感した。だけどこのお産を体験したからこそ、妻とはこの先の子育ても一緒に乗り越えていける自信がある。。

そして一番うれしいことは…….




やっと交代ができること!!!!




やっと代わりに抱っこができる。妻に寝てもらうことができる。
自分の乳首をどれだけつねってもやっぱり母乳は出せないけど、ミルクを上げられる。これまで妻がお腹の中でずっとしてくれていた子供を育てるということをようやく代わりにできるようになる。



妻には好きなだけ仰向けで寝てほしいし体が回復したら好きに外に遊びに行ってほしいし好きな家系ラーメン食べに行ってほしいし、とにかく軽くなった体でこれまでできなかったことを思う存分してほしい。

そんな気持ちでいっぱいです。


もうすぐ妻と子が帰ってくる。僕たちは新しい生活を始め、慣れない育児に翻弄されながら一緒に親になっていく。
3人の暮らしが、これから始まります。


おわり



退院までひたすらプーさんでオムツ替えの練習をしている



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