2020-05-02の日記

晴れ。暑い。暑すぎます。

夜には鶏天とししとうの素揚げを作りました。

ししとうが好きな理由が最近分かりました。ときおり辛いものに当たる、だから好きなようです。つまり、ギャンブルしたがっているのです。

たとえばウォッシュレットのビデとおしりのボタンを同時押しするとか、自動販売機の2つのボタンを同時押しするとか、日常をどうにかギャンブル化しようとしてしまいます。脳神経の特徴なのか、たんぱくな日々に唐辛子をかけたいのか、あるいは両方かもしれません。

さいきんはみんなが人生の不可避的なギャンブル性を意識しやすい情勢になっています。人生の不可避的なギャンブル性。そもそも誰に生まれるかが大きなギャンブルの結果ですし、また自分の意思でベットしてないのに投げ込まれる大き過ぎるギャンブルです。僕はベットしたくはなかった。

自由意志を排してみれば運が残ります。基本的に僕らの認識は運には耐えられないような気がします。理論は偶然を必然に落とし込もうとする営みのように思えますし、僕らの認識機能は遺伝子の残存確率を上げるように世界の現象を利用しようとするため、また認識と記憶のハードウェアは限られているために世界において規則性しか利用できません。

認識と記憶のハードウェアが世界と一致するのならば規則性ではなく混沌そのものが利用できそうです。ニュートンは時空が神の感覚器官であるみたいなことを言っていたと思いますが似たようなイメージです。もはや利用の意味も定かではないでしょうが。

いや、そうか? うーん 書き文字では思考中の音が鳴らないのがつらいです。適切な世界の分節を知りたいですねー。言い回しとして世界を「関節に沿って切り分ける」というのがありますが、それですね。事物や出来事などの分割の「正しい」方法。

まあ分からんよなー実在。マジであるもの。理論が要請するものしかわからん。理論が要請するものもわからん。ボソンという記述は何へのコミットメントなのか? まったくの無知です。わからないけれど、わかるしか方法がない。存在したくないけれど存在するしかないように、やりたくないけれどやるしか方法がない。

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