2020-04-29の日記

晴れ。いうこともない春。

昭和の日という祝日でした。昭和天皇のお誕生日です。まだ平成の日はありません。

とくになにもしていません。今日は何かしらを愛でなくなってピザを食べました。しかもデリバリーです。おそらく50年後くらいには「あの頃の豊かさ」として記号的に扱われるのかもしれません。30年前には、19時からの野球中継を自宅で見る余裕が全国の主たる家計支持者にもあったそうなのですが、いまではその事実は信じにくいと思います。

さいきん起きている間はほとんどアメリカのラジオを聞いています。いつもは聞き流す程度の集中力でも、いざリスニングしようとすると前よりは聴き取り能力が上がっていてびっくりします。

FOXニュースは相変わらず勢いがあり、大統領候補者を「セクシャルハラスメントではなくレイピスト」と形容したかと思うと30秒後には「ロレックスは最高の時計!」とCMとも番組ともつかない調子で宣伝していておおらかさを感じます。

昼くらいに偉大な発見をしたのですが、何だったのか夜には忘れてしまいました。

あと旧石器捏造事件の情報を見ました。「客観的な科学」に対するものとして「主観的な哲学」が挙げられていたのでムキーとなりました。

しかし客観性や主観性についてはぜんぜんわかりません。

友人が物理学を専門的に研究するようになって、いわゆる「認識論べったりの存在論」の立場を取るようになっていたことを思い出します。

宇宙にただ一つ石ころがあって、それ以外は存在せず、誰もそれを観測していないときにそれは存在すると言えるでしょうか(もしくは、そのような想定の宇宙が可能でしょうか)。言えない(可能ではない)のならば恐らくあなたは「認識論べったりの存在論」を取っているかもしれません。それほどに強くないバージョンも多数ありますし、友人はこんなに強い立場ではないのですが……譲歩と言い訳を並べる感じになってきたので終わり。おそらく、強度別(カテゴリ別)のマッピングが必要になりそうです。

近ごろはGoogleにもイヤな気分になっていてDuckDuckGoの検索エンジンとブラウザを使用しています。Google検索でひっかかるお決まりのページがあまり表示されないだけでも儲けもんです。つまり、まとめブログなどの引っかかりが少なくなります。そして個人サイトを少し拾い上げます。

人間はパターンを認識するとそれに興味を持たなくなる傾向にあるのか、それとも老化にともなって全ての現象を自分のありものの解釈システムで解釈するようになるのか気になります。たとえば、ある程度の歳をとったひとが「最近の音楽はぜんぶ一緒に聞こえる」と言い出す出来事にはよく出くわすと思います。

僕はある時くらいからまとめブログに対してこの感情を抱くようになりました。2ちゃんねるはその前。twitterもだいぶそうです。TikTokはまだ。洋楽チャートもまだ。

この現象は「自分に近いものは多様に見え、遠いものは同じように見える」という原則の一つの例化にすぎないかもしれませんが……

しかし僕はまだ演歌の多様性が分かってないので、後者である確率が大きい気がします。これは人種間の顔の判別性についても似たような心理学の結果があります。自分に近いものは多様に見え、遠いものは同じように見える。

どこに身を置くかが重要、という話になりそうですね。寺の前に住む子供はお教を判別できるだろうし、FAKEとREALの区別をつけるにはヒップホップに身を投じたほうがいいのかもしれません。

えせ天声人語みたいになってきた。教訓を引き出したり引き出さなかったりする。コントロールしましょう。

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