2020-04-23の日記(インターネットから切断する)

引き続き暖かい。まあ勉強をしていました。

ゲーム『スプラトゥーン2』の対戦ロビーにはひとびとの絵やコメントが表示されるのですが、そこに「メディアは信じるな!」と殴り書きされていて恐ろしかったです。ウイルスへの恐怖は楽しいものを侵食し、奪い去っていくのだなーと思いました。

ツイッターはほんとうに見ていません。ひとびとの動向も1週間ほどすると気にならなくなります。ツイッターと比べ、noteは銭湯に似ています。銭湯はスマホが持ち込めません。そのため、湯船では自分と向き合うしかありません。インプットもアウトプットもない状態となって、思考の流れを感じ取れるようになります。同様に、noteも自分と向き合うしかありません。そして思考の流れを感じ取り、自分がどうしてそれを考えているのかが追えるようになります。

よく「接続過剰」という言葉が僕らの生活の形容に使われています。繋がり過ぎを避ける。切断する。などを生活の態度として扱うことは結構前の思想界で流行っていたようにも思いますが、思想的な抽象アクションの意味とは別に、現状での具体アクションにおいて意味を理解できるようになってきました。

文脈から解放される必要があります。空気読みから解放される必要があります。対人から、党派性からも。これらは皮肉的に「人間関係」と呼ばれていましたし、呼ばれていくものです。

僕は気を抜いていると昔のイヤな思い出が勝手に脳内で再生されてしまい、奇声を押し止めるのに必死になりがちなのですが、この症状を指して「勝手に情動が操作される感覚」と形容されることがあります。

最近のインターネットを見ているとその「勝手に情動が操作される感覚」に似た現象がよく起こります。ツイッターのタイムラインには、みんなが怒るべき事態が流れてきてみんなが怒り出しますし、かわいい猫の画像が流れてきてかわいいという感覚が引き起こされます。心の面白いスイッチをやたらめったら押すジョーク映像が流れてきたり、正義をなさねばスイッチを押す身の上話がサジェストされます。とにかく自動的です。これが自由のインターネットでしょうか。僕は感情を吐き出す自動販売機になってしまった感覚がします。

サジェスチョンと文脈、ニュースと空気、それらが投入口に入ると感情を返す機械に自分がなってしまう感覚が耐えられません。他人に(アルゴリズムに?)引き起こされた感情に人生を操縦されたくないのです。

他人のサジェストやアルゴリズムの提案ではなく、自分で何かをディグるという経験が重くなっていくかもしれません。図書館に行き、古代テキストサイトを発掘し、メルカリを探索します。スマホを見ずに散歩にでかけて袋小路にはまりましょう。心までサジェストインターネットに繋がり続ければ均質化の波に飲み込まれ君は面白くなくなってしまいます。

ほんとうに? さいきんは断言が重要だと感じることが多いですが。でも事実確認と人間関係は分けたほうがよく…… そもそも事実と価値の二元論自体が…… こう口を濁してばかりなのがよくないんですよね。分かっているのですが…… 

夜ご飯は豚肉とキャベツと卵とをお好み焼き風にまとめたものを作りました。ぽん酢で食べるとよいです。

今日の分おわり。

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