夕方水蒸気【短編小説】

どんな人間にも、隠し事の一つや二つ、あるものである。

そして、どんな人間にも、恋人や家族の他に依存している「モノ」があって、その依存が失われた時には、代替案によって、その依存性が埋め合わせされていく。

「じゃ、買い物行ってくるから」

「うん。ありがとね」

真夏の夕方はまだ明るいから嫌いだ。しかし、五時ぐらいになれば、少しずつ太陽がオレンジ色に変わる。その色を見た時、少しだけ僕は、救われたような気分にさせられる。

交際相手の夏希が、忙しそうに夕飯の買い物へ出かけていった。行き先はおそらく、最寄りのスーパーだろう。

今年の夏は、夏希と交際して二回目の夏。そして、夏希と同棲して一回目の夏だ。

同棲して間もない頃は、僕と夏希の二人で夕飯の買い物へ出かける事も多かった。

しかし、最近は夏希が一人で買い物に出かけることが、日常になってしまった。

夏希が一人で買い物に出かけるようになった当初は、「買い物」という職業を彼女に押し付けていることを申し訳なく思ったし、不安にも思った。

しかし、その申し訳なさや不安も、日常の海に混ざり会って消えてしまった。

最近の僕は、あからさまに怠惰であった。ダブルベッドを占領するように横たわり、大して面白くもない、スマートフォンの画面の先ばかりを眺め、わざとらしくため息をついて、置物のように、家での時間を消化した。

自分でも、この怠惰の在りかが分からなかった。

というより、分かってしまったその瞬間に、僕の心が取り戻せなくなる気がしたから、分からないと思う事にしていた。

あからさまな僕の怠惰。これが恐らく、夏希が僕を買い物に誘わなくなった理由である。僕は、夏希の事を、人の心の動きをつかみ取る事が鈍感な女性だと思っていたが、もしかしたら鈍感だったのは、僕の方だったのかもしれない。

◆ ◆ ◆ ◆

彼女が買い物に出かけて、二人暮らしのこの部屋に、一人の僕が取り残される――その度に、僕は、酒の酔いが醒めた後のような寂しさを感じ、それと同時に、実家に帰ってきたかのような安心を覚えた。

それは、今日に関しても、同じであった。

そして、彼女の香りが薄まったことをぼんやりと感じながら、僕だけの領域と化していたダブルベッドから、重たい体を持ち上げる。

重たい体はそのままで、すぐそこにある、自分専用のデスクへ向かう。なぜだか肩が凝っていると気づく。今日は何もしていないはずなのに。

デスクに辿り着き、右側の引き出しを開ける。その引き出しの奥の方にある、なんてことない菓子の空き箱から、加熱式タバコ端末「iQOS」と、「Marlboro」と書かれた煙草の箱を取り出す。煙草の箱の中身を確認する。大丈夫。ギリギリあと2本、残っている。少しだけ身体が元気になったような気がして、可笑しくなって、心の中で少しだけ笑った。

言うまでもないが、僕は立派な大人だ。だから、僕が今から計画している行為は、決して法を犯すような行いではない。

しかし、その行為は、違法薬物の常習者のように、果てしなく悪い行いをしているような、居心地の悪い背徳感を伴うものだった。

◆ ◆ ◆ ◆

「タバコ、やめてよ。長生きしてほしいから。」

同棲しよう、と夏希に提案した時、夏希は珍しく真剣な顔で、僕にそう言った。

僕は、夏希の前でも平気で煙草を吸っていた。夏希はてっきり僕の煙草を許してくれているものだと思っていたが、同棲するとなると、話は変わってくるらしい。

僕がタバコをやめること。これが彼女と一緒に生活をするために必要な条件だった。

僕は当時、夏希の次に、煙草へ依存していた。

その依存を断ち切るというのは、そう簡単な話ではない。しかし、夏希は(簡単に出来るでしょ?)という顔で、僕に禁煙を要請した。

僕にだって、色々と言い返したいことはあった。

でも、大好きな夏希の要望だから、断ることが出来なかった。

夏希が、僕に「長生きしてほしい」と思ってくれていることが、純粋に嬉しかった、というのもある。

僕は思い切って、持っていたタバコや、ライター、灰皿、全てをその日のうちに処分した。

あれはまだつい最近のこと。この前の春の話だ。

◆ ◆ ◆ ◆

しかし、僕の禁煙はそう長く続かなかった。

理由はよく分からない。というより、分かりたくもなかった。

毎日の「怠惰」を、喫煙という行為で、少しでも誤魔化したかった。

だから、先月、夏が始まる前に、コンビニで、加熱式タバコを買った。

アイコスと呼ばれるやつだ。加熱式タバコは、普通のタバコに比べて圧倒的に臭いが少ない。もちろん加熱式タバコ特有の臭いはあるのだが、それでも、服や手指、髪の毛につく臭いは限りなく少ないといっていい。

だから、これなら夏希にもバレないかもしれない、と思った。

コンビニで加熱式タバコ端末を買う。この選択肢を選ぼうとしたときに、僕は不倫をしている男のような気分になった。

でも、コンビニから出てきた僕の右手には、加熱式タバコ端末が入った、ビニール袋があった。

◆ ◆ ◆ ◆

今日も、夏希が買い物に行ったこのタイミングを選んだ。

臭いが残らないベランダで、加熱式タバコの喫煙を試みた。今日はやけに横風が強かった。本来であれば、風は喫煙に適さない。

でも、夏希にタバコの臭いを察されないように奮闘している僕にとっては、むしろその方が良い。今日はラッキーだと思った。

端末にタバコを差し込み、電熱によって加熱が始まる。加熱が済んだバイブレーションを合図に、赤子が自らの親指を咥えるように、「煙」を喫する。

加熱式タバコで吐く煙は、実際の所、「煙」ではなく、「水蒸気」である。紙巻タバコの様に、タバコ葉を燃やすわけではなく、タバコ葉を電熱で熱するのが加熱式タバコだ。燃やしていないから、煙は出ない。出るのは「葉っぱの水蒸気」なのである。

こんなの、「タバコごっこ」みたいだな、と、心の中で自虐した。ハードボイルドに紙巻タバコを吸うアメリカ映画の主人公と、彼女にバレないようにこっそりベランダで加熱式タバコを吸う僕は、まったくの別物だった。

しかし、それでも、凝り固まった肩や、誰かに言うまでもない絶望が、ほんの、ほんの少しだけ、安らいでいくのが分かった。

僕は、繰り返し、繰り返し、夕暮れの空に向かって、水蒸気の「煙」を吐いた。煙と水蒸気。この二つは似て非なるものだ。しかし、今の僕には、似て非なるものでも、満足がしてしまった。

二本目を吸い終え、二本の吸殻を夏希には分からないように、しっかりと処理した後で、ベランダから部屋に戻る。

少し軽くなった体のまま、一人で占領するダブルベッドに、再び身体を横たえ、再びスマートフォンを眺める。

そろそろ夏希が、買い物袋を引っ下げて帰ってくる頃だ。

いつも通りの日常を作って、彼女を迎えなくてはならない。

◆ ◆ ◆ ◆

夏希が買い物から帰ってきた。おそらく、僕の喫煙については、気が付いていない様だ。

「今日はカレーにするね」とつぶやく彼女に、「今日''は''じゃなくて今日''も''だよね」と嫌味な返事をしてしまったことを、すぐに後悔した。

「へへ、ごめんねー、最近料理やる気でなくてさ」と、それでも健気に答える彼女に、「今日は一緒に作ろうか、最近任せっぱなしだったし」と提案すると、彼女は、ぱっと明るい顔を咲かせた。可愛らしいその顔を見て、嫌味な返事をしてしまった罪が、少しだけ許されたような気がした。

◆ ◆ ◆ ◆

当たり前のことかもしれないが、僕は、夏希の事が好きだ。

だから、彼女の行いに対しては、極力否定をしないように心掛けてきた。

いや、というよりも、もし仮に僕が彼女の行いを否定したら、その瞬間に夏希が僕から離れてしまうような気がした。それがたまらなく怖かった。

「友達」との朝帰りがやけに増えている事。

楽しそうに誰かとLINEでメッセージを送り合っていたので、「誰とLINEしてるの?」と聞いたら、ぎこちない声で「ただの友達」と返された事。

普段聞かないようなミュージシャンを聞いていたので、「誰かから教えてもらったの?」と聞いたら、なぜかその顔に戸惑いを見せた事。

追求したいことはいくらでもある。でも、追求するのが怖かった。その先にある最悪のケースと、向き合う覚悟が僕にはなかった。仮にそれが最悪のケースでなかったとしても、「追求した」という事実が、僕と夏希の関係性の足を引っ張る可能性もあった。

僕は我慢してきた。僕はずっとこらえてきた。だから、一つぐらい、我慢しなくてもいいじゃないか。と、無責任な理論で、自分の罪を正当化させて、夏希との約束を破り、加熱式タバコを吸う。

夏希を、いつまで誤魔化せるだろう。僕を、いつまで誤魔化せるだろう。

僕たちは、いつまで続いていくのだろう。

ずっと続いて欲しいはずなのに、この夏のように、気が付いたら終わってしまうような恐怖が、ずっと僕と彼女の間にはあった。

◆ ◆ ◆ ◆

どんな人間にも、隠し事の一つや二つ、あるものである。

そして、どんな人間にも、恋人や家族の他に依存している「モノ」があって、その依存が失われた時には、代替案によって、その依存性が埋め合わせされていく。

夏希と僕と、久しぶりに二人でカレーライスを作って食べた。二人で一緒の作業をする。この上ない幸せな時間を、僕は感じていた。

カレーライスの味は、ちゃんと美味しかった。でも、今週でもう3回目のカレーライスは、そこまでに心を動かされる絶品、とまでは言えなかった。

ここで僕は、少しだけ勇気を出した。

「明日も一緒に晩ご飯を作ろうよ、なんなら一緒に買い物も行こう」

と投げかけた僕は、きっと気分酔いしていたのだろう。

言った後にまた、後悔してしまった。

そして、僕のこの提案に対して、夏希は曖昧な返事をした。

「うん」という言葉の声が、やけに曇っていることに、僕は気が付いてしまった。

その後、彼女は気まずそうに、こう付け加えた。

「あの…ごめんね、実は明日、友達に晩ご飯、誘われてて…」

「あーそっかそっか。それなら仕方ないね。楽しんできてね。」

そう相槌を打った後に、僕のタバコの箱は、今日吸った分でもう空だった、ということを、その時なぜか、思い出した。

きっと、明日の夕暮れも、僕は、紙巻タバコの代替に、加熱式タバコの「煙」を、いや、「水蒸気」を、吐くのだろう。

そんな予感のした、夜だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?