コーネリアスについて一考するならば
かつて狩猟採集民族の中の一部には、老いて、あるいは病にかかって、群れについてこれなくなった仲間を殺害する風習があったらしい。
なんてひどい。人には人権があり、殺人は罪である。
こう考えるのは現代において真っ当だが、必ずしも悪とは呼べない理由は大いにある。
群れの足手まといとなりうる人材をそのまま連れて行くことは、群れ全体の死を意味していたのかもしれない。
もちろん、群れの命と、老いた一人の命を単純な天秤にかけることはできない、というのが少なくとも自由主義に生きる我々の発想だ。
だが、それは現代に巣食う常識に飲まれた考え方かもしれない。
当時、群れを救う殺人は「正義」であった可能性もある。
少なくとも彼らにとっては大いに筋の通った活動であったかもしれない。
その逆に、正義でなかった可能性だってある。お世話になった長老を殺す若い衆の目は充血し、血しぶきには大粒の涙が混じっていたかもしれない。
これは、現代より原始的で稚拙な正義だろうか?
現代の正義が正義であって、過去の正義はアップデート前の正義なのだろうか?
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一人一人に人権があり、いつだって答えは己(一人一人の個人)の心の中にある。経験を積み重ね己を高めることが良いことであり、それゆえに一人一人の命の重みを数学的に測ることはできない。
....という自由主義の発想は、自由経済の勃興とともにあった可能性は高い。
科学の流行によって宗教の肩身が狭くなった時代に、科学と経済が結びつき、お金を回すにおいて最適だった思想が自由主義だった、だから流行った、それだけのことかもしれない、ということだ。
我々は幼い頃からそういった常識に慣れ親しみ、そういった教育に触れ続けているために絶対正義のように感じがちだが
清廉潔白な純たる、過去より一層グレードアップしたより良い正義か?というと疑問点はいくらでもみつかるだろう。
(そもそも、そんな正義って、存在し得るのだろうか。)
歴史を振り返れば。
一人一人に人権や自由選択権はなく、いつだって答えは神(聖書)の中にある。信仰を積み重ね来世での安泰を求めることが良いことである。
...という中世の発想の「神」が「個々人の内側」に書き換わっただけのようにも思える。
さて、中世の人々より、今の人々の方が幸せなのか...これは議論の余地が十分にある。
世界は日々良くなっているのか?
良くなっているってどういうことなのか?
真剣に考える必要がある。
そもそも「成長や日々良くなっている実感」を、人々が持ち始めた時期は自由主義・自由経済の台頭と時を同じくしている、なんて意見もあるようだ。
中世において、そもそも、成長や発展は人々の主眼になかった。
そうであれば成長していないことに不満や不幸せを感じることもない。
例えば、過去よりも良い正義か、悪い正義か、なんていう成長をベースにした比較が生じること自体が、「今風の価値観」であって、あんまりマクロで風通しの良い発想とはいえないかもしれないのだ。
こういったことを、様々な切り口で無数に想像することができるだろう。
そして、では、この次の200年、全く同じ倫理観、正義、価値観がまかり通るか、といえば、それはちょっと想像しづらい。
さあ、どの正義が正義だろうか?
どうやら正義というものは特定の時期・特定の文化圏内で効力を発揮するのみであり、現代から見れば「稚拙」に思える正義があったとしても、過去や、未来時点での正義を冷静に、平等に評価すること自体がかなり難しそうである。
単一の正義で何かを悪と評価するのはいささか乱暴な可能性がある、とも言い換えられる。
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コーネリアスとして知られる音楽家、小山田圭吾さんはオリンピックの音楽を担当することに決まっていたが、25年前の雑誌で「いじめを行なっていました笑」みたいな感じで、学生時代にいじめを行っていたことを半ば得意げに語っていたことが発覚し、炎上している。
しかもそのいじめの内容が酷いものであり、ここでは列挙したくないくらいに残酷と言える内容である。
平和の祭典にいじめ加害者、それも悪びれもなく平然と雑誌で語るようなヤツ....不愉快だ!辞退しろ。
これは極めて真っ当な意見・反発だと思う。
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一方で25年前の雑誌に記載されていた内容である、という点は留意したいポイントだ。
いじめは学生時代のものであるようなので、実際に行なわれたのは35年くらい前、ということになるだろうか。
近現代における35年というのは歴史の文脈が動くには十分な年数である、ということがポイントになりうる。もちろん年数に絶対的な基準などはなく、いつだって厳密に思考を繰り返す必要性があるのは言うまでもないが。
いじめ加害者である→いじめを受けた人の心は何年経っても癒えない→だから加害者は何年経っても許されるべきではない。
と、考える前に少し考えてみてほしい内容がある。
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当時のサブカル誌におけるインタビューでは過激な内容を取り上げることがトレンドであったらしい。福永が物心つくより前の出来事なのではっきり言うとちょっと意味がよくわからないが、自分にはわからなくてもそういう時代が存在していたらしいことは事実のようだと想像できる。
小山田氏の謝罪文の中に「雑誌には内容を誇張して書かれたけど、いじめたのは事実なので、静観していました」ともある。なんだか少なくともごく一部の文化圏においてはそういう時代だったようなのだ。
また、小山田氏の出身校は自由な校風で、それはいじめを助長しかねないものでもあった、という意見がSNS上に見られる。当時の現地の空気感は、当事者同士にしかわからない部分もあるだろう。
かなり端折って書いているので、気になる部分は調べてみてほしい。
いじめを受けた人の心は例え25年、35年経ったって癒えない。
それだけ大きな罪を犯したということである。
その点について不快に思うのは当然と言えるし、理屈ではない。
不快なものは不快である。
だが、それを差し引いてもなお、35年前の行いと、25年前の記録を、現時点の価値観でもって断罪し、矛先を向け、血祭りにあげようとする現在のSNS上の動きには賛同できない。
それから大きく価値観が変わった可能性がある。
それから大きく時代が変わった可能性がある。
それから加害者や被害者がどのように暮らしてきたのかはわからない。
当事者やその友人のことならばまだしも、会ったことすらない人と人の35年前の出来事の話だ。
現代の文脈における正義が常に唯一の正義とは限らず、その時代その時代に異なる価値観が渦巻いている。
そういった「想像力」を持てているか。が、ポイントと感じるのである。
加害性の無自覚や、想像力の欠如は、いじめの根本的な原因となりうる。
現在SNSで小山田氏に過激な発言の矛先を向ける人々のうち、こういった想像力を持てていない人はいないか。
人間に対してそういった過激な発言を大多数の集団がむけることの加害性を自覚できているか。
彼らは皆、いじめを非難する人たち。そのはずである。
にもかかわらず、性質としては、いじめを行う人たちと同じか、少なくとも近しいのである。
小山田氏はいじめを行なっていたのだから、現在どのような目にあっても問題はない。と、考えるだろうか。
人を傷つけたことが一度もない人。いるだろうか。
過去に一人として悲しませたり苦しませてしまったことがない人。
いるだろうか。
少なくとも自分はそんな「酷いいじめ」をおこなっていない。というだろうか。
「行いの内容」が必ずしも「心につける傷の深さ」と綺麗に相関しない可能性は十分にある。無自覚な、悪気のない、本当にひょんな一言が人を大きく傷つけてしまう場合だって大いにある。これも「想像力」だ。
小山田氏に怒りをぶつけることが必ず間違いである、とは思わない。
少なくとも現代の価値観で言えば何を選ぶのも自由である。
一方で、そういった方々の一部には、加害性と想像力のなさを感じてしまうのもごく個人的には確かなのである。いつの間にか、意図せず"正義の棍棒を振り回すいじめっ子"になっていやしないだろうか?
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正義の名の下に悪を糾弾するのは気持ちが良い。
世論が味方につけば、少なくとも民主主義下であれば大きくレールを外れることもない。
インターネット上では生の肉体に触れることもない。
正義ってなんだろう?
この件に関して、断言できることは、本来かなり少ない、と思う。
わからないことが多すぎる。思慮深く発言せざるを得ない。
でも、少なくとも、インスタント正義で快感を得ようとする「正義の名の下での悪の糾弾」に対しては今のところ個人としては賛同できない、ということになる。
それに賛同するのはいじめ加害に賛同するのと、構造的には同じことだと思うからである。
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じゃあ平和の祭典・オリンピックの音楽を担当するなよ/させるなよと言う考え方もありそうだ。それこそ想像力の欠如である、と。それはある程度否めないだろう。一方で、想像するならば下記のようなことも想像できる。
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インフルエンサーであればあるほどこの件について発言するメリットが小さい。したがって、多くの著名人はこの件について静観の立場をとるだろう。
過去に過ちを犯した人がいて、その人を、しばらくの年数が経っても大いに批判し、それについてインフルエンサーは静観するほうがメリットがあるのが現状だとしよう。
そんな社会は議論が進まず、不透明性が高く、息苦しい。
上記の通り過去に人を傷つけたことがない人はいない。
これまでに過ちを犯したことがない人だって、いない。
そういった過ちに対して、不快の感情が沸き起こるのが当然であるのは大前提とした上で、必要以上にはギスギスせず、想像力をお互いに持ち合い、許し許される土壌ができていけば、社会には議論を行うだけの風が通り、透明性が高まり、回り回ってみんな呼吸がしやすくなるように思う。
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あくまでも以上の文章は一方や他方を完全に擁護・否定したりするものではない。そんなのはこの文章の土台に背く行為なので、ここまで読んだ方にはわかっていただけるだろうことを信じる。
また、所属する団体とは無関係の個人的な思考の結果である。
当然、特定の神聖なる主張や、正義の置きどころ等も全く含まない。
そして、ここに書いたことのうち、間違っていた、思慮が足りなかったと思う点がみつかれば、日々思考を、場合によってはこの文章自体をも、アップデートしていけたらと思う。それこそ、こうやってアウトプットした意味があったというものだ。少なくとも現代の価値観においては。
要するに、この件を通して個人的に考えた内容を個人的に書き綴り、残しておきたいと考えたものである。
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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