熊野寮と徹夜マージャン

 以下駄文。

 迫りくる平日の気配におびえながら日曜日の夜を過ごしていたら、twitterのタイムラインにこんな投稿が流れてきた。

 寡聞にしてこの日本笑い学会長先輩のことも、日本笑い学会のことを存じ上げないし、更に言えば私の知っている限り熊野寮という空間は儒教思想の流れをくむ年功序列主義に代表されるような、社会常識とされるものと一定の距離を置いた文化圏だったので、こと熊野寮関係者である限りはこの先輩のことを知らなくても罪悪感はないのだが、

「熊野寮にいたので、(マージャンの)相手はいくらでもいました。夕方から始めた徹マンはついに朝におよび、それから就寝、目覚めると夕方という逆転生活。」

の一節にふと学生時代の思い出が想起されたので、備忘としてNoteに残すことにした。熊野寮の麻雀文化を詳細に書き上げるつもりはないし、そうした資料的価値の高い文章は、熊野寮があちこちに排出してきた才能の無駄使いの天才たちが書いているんだろう知らんが。

(全く関係ないが、熊野寮にもうっすら存在した「年功序列主義?なにそれ食えるの」的傾向をさらに強めたのが吉田寮で、熊野寮が「先輩だという一点のみで指図されるいわれはないし、『〇〇先輩』という敬称はなんとなく使わない」程度の文化である一方で、吉田寮では「そもそも敬語を使うこと自体が年功序列主義に迎合していることに他ならないから、平等を積極的に体現するために寮生同士は在寮年数や年齢、学年にかかわらずタメ口で会話するべきだ」という、もう一歩「進歩的」な文化が成立しており、同じ自治寮生として、畏敬の念を抱いたものだった)

 ゼロ年代の終わりごろに九州・男子校・寮生活・柔道部という、世間知らずの数え役満みたいな環境から京都に出てきた(これを「上京」と言う)私にとって、「徹夜でマージャン」というのは、少年非行にも等しい、罪深い行いのように見えていた。大学入学当初は夜な夜な談話室に集まり卓を囲む先輩たちに軽い軽蔑を覚えていたし、近所のヤンキーを見るような「ちょっとかかわっちゃいけないお兄さん」的印象を抱いていた。

 そんな折、世間知らずの数え役満街道をひた走っていた少年が、挫折を味わい、落ち込んでいた。今になってみれば、きっかけはたいしたことではなかった気もする。体を壊して柔道部を辞めることになったとか、そんなことだった。ただ、数え役満少年からすれば、アイデンティティが崩壊しかねない大事件であったようで、落ち込んでいる様を傍からみて心配してくださったのだろう。(実際はメンツが足りなかったのだろう。)マージャン好きの先輩に声を掛けられ、人生で初めてマージャンを打った。

 マージャンの勝敗は覚えていない。というかその時に限らず、まじめに点計算をして云々せず、結局大事な学生生活を通じて、ただだらだらと牌を並べることした覚えなかった。きっと私は、黒川元検事長と卓を囲ませていただく機会があっても辞退しなければならないだろう。残念。新聞社に入社しなくてよかった。一安心。

 鮮明に覚えているのは、マージャンを打ち終えた朝の空気だ。当時の熊野寮は、2010年度に実施された耐震補強工事前だったこともあり、中庭に豊かな生態系を湛えていた。農学部の先輩が研究室からくすねてきた、梨の野生種が生えていたと聞いたこともある。その中庭が朝日に照らされ、爽やかな鳥のさえずりとともにキラキラと輝いていたように見えた。

 (実際はそんなことはない。当時の熊野寮の中庭は日当たりが悪く、今のように石窯のようなアウトドア設備が設置されていなかったことに加えて、手入れをしようなどと言う奇特な人間はおらず、一面にドクダミだのなんだの、日陰に生えそうな下草ばかりが繁茂していて、住み着くものといえば野良猫と、GやMから始まる名前を言ってはいけない例のあの虫くらいのものだった。)

 ともあれ、それまで、深夜12時になれば消灯と称してブレーカーごと落とされ、窓の外には鉄条網が走っているような環境で過ごしていた少年にとって、生まれて初めての徹マン明けの朝の空気は、たいそう新鮮な空気だったことを覚えている。徹夜マージャンを少年非行かのようにとらえていた少年は、このようにして大人の階段を昇って行ったのだろう。知らんが。

 それからというもの、修士課程を修了するまでの6年間、熊野寮にどっぷりと漬かりこみ、四条大橋で綱引きをしたり、京都駅大階段でグリコをしたり、サークルにも無縁、1限はおろか午前中の授業に出れば周囲に驚かれる、卒業式はドラえもんという、今思えばあれこそが青春というべき生活を送った。尊敬していた先輩の言だが「一升瓶を持ってうろついていればいつでもコンパが始まる」空間は、数え役満少年を、見事に(ダメな)大人へと成長させてくれたのであった。 

 コロナ禍のおり、授業のリモート化が明後日の方向へ進化して、「単位が雨のように降ってくる」と表現された京大の授業が「課題が雨のように降ってくる」状態だと聞くし、管理強化だ!と(一部かもしれないが)嘆かれていた前総長から、どう見ても方針転換されることがなさそうな教員が総長に選出されたとも聞く。
 残念ながらまともなOBではないので、だからと言って母校になにか貢献をしようという、運動に力添えをしようという気概はまったくないのだが、前述のぬるま湯のような日々が失われるのはちとさみしいような、自分みたいな半端モノを生産するだけのくだらない装置はさっさと破壊されるべきだというべきなような、よくわからん感情を抱いている。

 と、こんな駄文ですらいま書き溜めておかないと、そのうち文化も記憶も根こそぎ失われてしまいそうだな、と思った次第でした。

駄文ここまで。





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