映画『バードマン』と映画『セッション』について

 話題の映画『セッション』と『バードマン』、両方、観てきました。この二つの映画、どちらも非常に評判が高い。日本公開が同時だったこともあって、比較批評の機会も多いようです。なので、僕もそこに加わってみることにしました。

  ちなみに、『セッション』に対して憤怒の酷評を与えた菊地成孔さんは「総てのジャズドラマーの方は、ワタシが私費でチケットをご用意するので必ず観て下さい」とした後、「『バードマン』という映画のチケットを同封します」と付け加えています。『セッション』という音楽家を絶望させる世紀の愚作を観た後に、「おおいなる救済」を与えてくれる傑作として、『バードマン』を挙げている訳です。

 『バードマン』がこのように扱われる理由は、それがジャズ・ドラムをサウンドトラックに使っているからでしょう。『セッション』はジャズ・ドラマー志望の学生の話ですから、当然、ジャズ・ドラムが全編に登場する訳ですが、『バードマン』はサウンドトラックの大半が、アントニオ・サンチェスという気鋭のジャズ・ドラマーによるドラム・スコアなのです。

 そのアントニオ・サンチェスのドラム・スコアは確かに素晴らしく、この作品の映画表現を強靭に支える存在にすらなっています。かつ、映像とともにならば、長時間、ドラム・ソロだけを聞き続けても苦痛ではない、という不思議をこの映画は生み出しています。たぶん、観客の99%にとって、生涯で最も長い時間、ドラム・ソロを聞く体験が、映画館で待っているでしょう。

 しかし、僕が『セッション』と『バードマン』を並べて語る意味を見出したのは、そこではありません。

  『バードマン』はテーマも手法も面白い映画です。それはブロードウェイの演劇世界を扱った映画で、物語の中では映画と演劇という異なる世界が何かにつけ対比されます。それは演劇から映画に向けた、シニカルと言っていい程の批評/批判も孕んでいます。

 ともあれ、ブロードウェイの演劇世界を扱った映画という点で、『バードマン』は、ジャズを教える音楽学校を扱った映画であった『セッション』とよく似た構図を生み出します。端的に言えば、『セッション』が「音楽映画」ならば、『バードマン』は「演劇映画」なのですね。ともに「異ジャンルの芸術を扱った映画」である。ゆえに、『セッション』がジャズの精髄や音楽学校の現実をよく知る人をムズムズさせたのと同じことが、『バードマン』を観たブロードウェイの演劇をよく知る人に起こっても不思議はなさそうです。

 このまま、『バードマン』の話を続けてしまいましょう。『バードマン』は、映像手法的にかなり新しい領域に踏み込んでいる映画です。見終わった後しばらく、僕は「映画というのは一台のカメラしか同時に使え ないのだ」というあまりにも基本的な認識のまわりで、ぐるぐると思いを巡らすことになりました。そのぐらい、『バードマン』のカメラワークは秀逸です。

 ただし、この点に触れた下記の「映画.com」の評は鵜呑みにはできません。

【『バードマン』映画ファンの疑問(1)】奇跡の全編ワンカット撮影はどう実現したのか?。 http://eiga.com/news/20150410/21/

  このコラムは、長回しのカットを多用したように見える映画の撮影方法が分かって、大変に興味深い内容なのですが、「そう、全編ワンカットにした意図がここにある。映画は終始、主人公の視点で描かれているのだ」と書いてある筆者の判断は明らかに間違いです。そもそも、「全編ワンカット」ではないですし、主人公の視点だけで描かれた映画でもありません。映画は主人公のあずかり知らないサイドストーリーも多く描いています。

 終始、主人公の関係する物語しか描いていないのは、むしろ、映画『セッション』の特徴だったりします(これは『セッション』を読み解く上で、重要な特徴でもあります)。一方、『バードマン』は、屋上での主人公の娘と劇中劇の俳優のキスシーンや、楽屋での二人の女優同士のキスシーンなど、主人公が不在のパートも深く心に残ります。劇中劇の俳優達や主人公の家族、マネージャーなど、多くの登場人物の心の機微も丁寧に描き込んであって、それがこの映画の優れたところです。

 そういう意味では、「終始、主人公の視点」どころか、数名の登場人物の視点も盛り込んで、一つの物語が紡がれるのが『バードマン』という映画です。結末は「娘の視たもの」の彼方に消えていきますし。

 が、その一方で、映画というのは「一台のカメラしか同時に使えない」というルールの中にあります。画面を分割しない限り、このルールは崩せません。

  カメラワークという観点から言えば、主人公が映り込んでいるショットは、原理的に主人公の視点(視線)にはなりえません(鏡を覗くシーンを例外として)。主人公以外の登場人物の視点か、もしくは 「神の視点」になります。映画作りの上では、カメラは常に「神の視点」とともにある、とした方が、構造的にシンプルになるでしょう。

  『バードマン』の場合は、カメラは主人公を追うことが多く、その意味では「神の視点(視線)」とともにあるように見えるのですが、そこには「誰かの視点(この場合は視線というよりは内的な視点ですが)」がしばしば混入もします。しかも、そういう視点の移動が、カット割によって表現されないのです。長回しのワンショットの中で「誰かの視点」→「神の視点」のような移動がいつのまにか行われている。

 この「長回しのワンショットの中で「誰かの視点」→「神の視点」のような移動がいつのまにか行われている」なんていうのは、映画だからこそできるマジックです。「誰かの視点」 →「神の視点」(あるいは「誰かの視点」→「別の誰かの視点」)という移動自体は、小説でも可能ですが、その場合は文章の区切りや主語/人称の扱いなどに留意しないと、読者には何が何だか分からない文章になってしまいます。

 映画の場合には、やろうと思えば、そこをシームレスにできる。「神の視点」と「誰かの視点」を長回しのワンショットの中ですり替えて、観客にあれっ?とは思わせつつも、重層的な物語を描き出していける。『バードマン』はそういうことをやっている映画です。固定されたカメラアングルの中でも、主人公の幻想(彼の内的視点)と現実(客観的な神の視点)が入れ替わったりするので、ややこしいのですが、カット割が細かくないので、視覚体験としてはスムーズでもあるという。

 しかし、同時に「演劇映画」である『バードマン』は、映画が持つ自由度の高い表現に対して、シニカルな批評を投げかけている映画でもあります。

  マイケル・キートン扮する主人公は映画界で一世を風靡した人気者だったが、演劇畑に転身して、監督、演出、主演を一人でこなす舞台を初演しようとしている。だが、エドワード・ノートン扮するその劇中劇に起用された俳優が、彼のプライドを粉々にします。舞台は映画のスクリーンとは違う。舞台俳優にとって、演技している時間はリアルな実人生の時間である。ということをノートンは強烈に叩きつける。

 映画のようにカメラワークや編集に頼れる世界ではないのだ、ということ。舞台上のハプニングが「観客の視線」にそのまま晒されるのが、演劇の世界だということ。考えの甘い映画人に対して、そうした演劇界からの批評を突きつけるのが、『バードマン』という演劇映画なのです。加えていうと、『バードマン』はさらに演劇界の批評家に対しても、批評を突きつけます。批評家はリスクを取らない。常套句と化した言葉で評価を出すだけ、だと。この映画と演劇とその批評をめぐる緊張関係が、『バードマン』 という映画の底にはあります。

 それゆえか、『バードマン』は終盤に差し掛かるまで、映画だからこそ可能な映像手法については、一定の禁欲性を見せます。たぶん、映画/演劇間の緊張関係を描く必要性から、映画の側に寄り過ぎることを避けたのでしょう。主人公が宙に浮いている冒頭から、実は特撮が使われているのですが、決して派手なことはしない。

 その抑制的表現が崩れるのが、劇中劇がいよいよ初演を迎える日の朝、路上で眠っていた主人公が目を覚ますシーンからです。そこからはCGを使った特撮の大技が炸裂します。映画批判を織り込んだ映画が、そこで一気に、「映画でしかできないこと」へと振れるのです。禁じていたドラッグを血管にぶちこんだような、その瞬間の映像的快楽はこのうえなく、監督の映画人としての歓喜すら感じさせます。

 とはいえ、それまで『バードマン』が「映画でしかできないこと」をやってこなかったのか、と言えば、そうではありません。先に書いたような、長回しのワンショット(実際には編集も凝らした「長回し風」だったようですが)にこだわり、カット割に頼らない「誰かの視点」→「神の視点」の移動という、地味ながら、過去の映画史でもあまり例のないことをやっていたのです。それはやりなおしの効かぬ「舞台」の緊張感を「映画」の中に織りこみつつ、映画でしかできないことに転化する挑戦でもあったのでしょう。

 そして、そんな映画をサウンド面から支えていたのが、アントニオ・サンチェスによるドラム・スコアだったということになります。映画中には、ドラム・ソロではない音楽が使われるシーンもあって、そこだけ普通の音楽が持つロマンチシズムが前面化します。そんなサウンドによるシーンの描き分けにおいても、『バードマン』は「映画でしかできないこと」を実に巧みにやってのけています。音楽映画ではないけれども、音楽に対する鋭敏なセンスを感じさせる映画です。

 対して、映画『セッション』はセンスの悪い音楽映画です。しかし、それはそれで当然です。

  というのも、映画『セッション』の登場人物二人は、ただただ酷い教師と馬鹿な生徒なのであって、となれば、そこに「良い音楽」があったりしたら、おかしいんですよね。菊地さんはビッグバンド・ジャズとして「中の下」と書いていたけれど、え?意外に高いランク付けだなと、僕などは思ってしまったくらいで。世の中の音楽全体でいったら、「中の下」にもならないレベルでしょう、あれは。

 普段、僕が聞いている音楽は、どれを取っても、天才がやっています。そして、次代の天才は現代の音楽学校にも必ずいるはずです。教師が教えることないような。教師の音楽観を超越してるような。そういう天才が出て来てくれないと、音楽ファンとしては困ります。ところが、あの映画中の学校には天才は一人もいそうにない。レベルの低い学生を、これまたレベルの低い教師が、ひたすらスパルタで鍛えて何とかしようとしている、という図しか展開しません、あの音楽学校では。

 なので、そこに「良い音楽」があるはずもなく、「深みある物語」もあるはずないのです。しかし、それがまったく現実の音楽シーンと無関係な話かというと、そうでもなさそうです。というのは、現代ではジャズは学校で勉強すれば、まあまあ何とかなるような音楽ジャンルになってしまっていますから。

  チャーリー・パーカーの時代とは違って、クスリもやらず、服も気にかけず、女の尻も追わず、学校に行き、教師について勉強し、ひたすら練習して、一流になろうとするのが、現代のジャズ・ミュージシャンの姿である。というような批判的視線を『セッション』という映画の中に見出すのは、不可能ではない訳です。

  ただ、どんなに「駄目な音楽」でも、それを映画の中で「面白く描く」ことはできるはずです。そういう音楽映画は過去にも幾つかあります。しかし、それこそは音楽的センスによほど優れていないとできないことであり、『セッション』はまったくもって、それには成功していません。音楽的なディテールやエピソードが粗雑過ぎて、あるいは通俗的過ぎて。結局、菊池さんに「中の下」評価される程度には、そこそこ良く出来たジャズであり、だからこそ、余計につまらないのが、あの映画の中の音楽です。

 町山智浩さんは、菊地さんの『セッション』批判をふまえた上で、最後の演奏シーンでは「菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです」と書いています。 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20150417

 が、僕は到底、同意は出来ません。最後まで二人は音楽家としてはレベル低いままですから。酷い教師と馬鹿な生徒の間で、何か心通じあったというだけです。

  宇野維正さんの評は、映画全体の見立てとしては、僕と比較的近いものでした。「本作が描いているのは、「圧倒的な努力の積み重ね」によって天才の領域に達することができると信じていた若き日の自分の愚かさへの悔恨」というのは、その通りでしょう。( 話題騒然のジャズ映画(?)『セッション』、絶対支持宣言! http://realsound.jp/2015/04/post-3022.html

 が、「若き日の自分の愚かさへの悔恨」を露悪的に描いたという見立てには同意できても、映画としてどこが「絶対支持」という程なのか?は記事を読んでも、今ひとつ、よく分かりませんでした。カーチェイスと同質の興奮を演奏シーンから引き出した、みたいなことだけ?

 あまり、そういう言及をされているのを見たことがありませんが、『セッション』はやはり、「映画でしかできないこと」をやっている映画だと僕は思います。そして、『バードマン』と同じく、それが前面化するのは、後半になってからです。

  その転換は、主人公が交通事故に遭うところで起ります。僕はその直後から、事故で主人公は死んだのではないか?と思って、スクリーンを観ていました。というのも、事故後、映画はどんどんリアリズムを失っていくからです。車が大破するほどの事故に遭った主人公が、全力で駆け出すシーンからして、常軌を逸しています。

 しかし、事故で主人公が死んだ、あるいは昏睡状態に陥っている、と考えれば、以後のリアリズムの喪失は不思議ではなくなります。言ってみれば、それまで映画は「神の視点」で物語を追っていたのに対して、事故後は「主人公の視点」、それも昏睡状態にある人間の幻想を描いていくのです。分かる人には分かると思いますが(分からない人には分からない例で申し訳ないですが)、リチャード・ケリー 監督の『ドニー・ダーコ』のような青春映画として、僕は『セッション』を観ていたのですね。

 生死の境にある人間の幻想と考えれば、後半の鬼教師との再会や振ってしまった彼女への電話あたりのメロウなトーンから、互いが復讐に燃える狂ったクライマックス・セッションへと振れる流れが、映画的にはすっきり見れます。かつ、主人公の脳内で描けるレベルの音楽しか描けない、というところからすれば、職を追われた鬼教師がクラブで演奏するピアノが安っぽいカクテル・ジャズみたいなのも、クライマックスが「キャラヴァン」という通俗的な選曲で、漫画チックなコンダクターとドラマーのバトルに終始するのも、俄然、映画表現としてはリアルな選択となる訳です。主人公は音楽の素養にもセンスにも欠けた馬鹿な学生なのですから。

 町山さん、宇野さんの記事を読むと、『セッション』のデイミアン・チャゼル監督は高校生の頃、ジャズ・ドラマーを目指したが、酷いシゴキで挫折した経験を持つそうです。とすれば、『セッション』は二重の意味で「復讐の映画」なのではないかと思います。表面的には、それは鬼教師への復讐劇へのように見えますが、同時に、音楽の才能はなかったが、映画人に転じて、成功に近づいてきた監督の「音楽の世界」への復讐の映画でもある。どうしようもなく陳腐なジャズ音楽映画を作り、しかし、「映画でしかできないこと」を使って、それをアカデミー賞を三つも取るエンターテインメントとして成立させてしまったのですから。

 映画『バードマン』には、(無知がもたらす予期せぬ奇跡)という副題が付いていました。この「無知」というのは、映画界出身の主人公が舞台芸術に対しては無知だったことを指しています。『バードマン』ではその無知ゆえの奇跡が起るのです。『セッション』のデイミアン・チャゼル監督も、同じような「無知ゆえの奇跡」を手にしたと思えなくない。

 と考えると、菊地成孔さんのように激怒する現役ジャズメンが出て来たことは、実は監督にとっては、してやったりなのかもしれません。

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?