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アーチー・ベル&ザ・ドレルズ『タイトゥン・アップ』徹底解説


 アーチー・ベル&ザ・ドレルズの「タイトゥン・アップ」は、数多くの人々に愛されてきたR&Bのダンス・ナンバーだ。オリジナル・シングルの発売は1967年の12月。アメリカでは翌年になってから大ヒットして、ポップ・チャートとR&Bチャートの両方でナンバーワンを獲得。永遠のディスコ・クラシックと言える1曲となり、その後も数多くのアーティストにカヴァーされた。日本ではアーチー・ベルのオリジナルよりもYMOのカヴァー・ヴァージョン(1980年の『増殖』に収録)で知ったという人の方が多いかもしれない。

 アーチー・ベル&ザ・ドレルズのアルバム『タイトゥン.アップ』は、その大ヒット・シングルをフィーチュアして、1968年の5月にリリースされた彼らのデビューLPになる。当時は日本では発売されることがなく、1996年にCDで初めて日本発売された。CDのライナーノーツは故桜井ユタカさんで、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの初期のディスコグラフィーについて、丁寧に解説されている。

 また、オリジナルLPのバックカヴァーには、プロデューサーのスキッパー・リー・リー・フレイザーによる英文のライナー・ノーツが添えられている。その意味では、僕がこれから書こうとしているのは、第三のライナーノーツということになるだろう。

 アーチー・ベル&ザ・ドレルズは、「タイトゥン・アップ」以前はまったく無名の、テキサス州ヒューストンのローカル・グループだった。しかも、オリジナルのシングル盤では「タイトゥン・アップ」はA面ではなく、B面に収録されたカップリング曲。ところが、ラジオのDJがそのB面の方をプレイしたところ、熱烈な反響が巻き起こった。当初は1967年12月、ヒューストンのマイナー・レーベル、Ovideからのリリースだったが、アトランティックがそれを買い上げ、1968年2月に再リリースすると、全米のラジオで人気爆発。アトランティックは急遽、「タイトゥン・アップ(パート1)」をA面に、「タイトゥン・アップ(パート2)」をB面にしたシングルを同年3月末にリリースし、さらに同年5月には、このアルバム『タイトゥン・アップ』を発売することになった。

 しかし、このアーチー・ベル&ザ・ドレルズの破竹の快進撃の裏側には、長く語られずにきた様々な物語があった。それらを紐解くとともに、「タイトゥン・アップ」という曲はどこが特別だったのか、その革命性を解き明かすのが、このライナーノーツの役割ということになる。そのためにはアーチー・ベルだけでなく、スキッパー・リー・フレイザー、そして、TSUトロネイドーズという三者のストーリーを重ね合わせていく必要がある。

 アーチー・ベルは1944年、テキサス州のヘンダーソンに生まれた。12歳の時にジャッキー・ウィルソンとサム・クックのステージを観て、歌手になることを決意。ヒューストンのジュニア・ハイスクール時代にコーラス・グループ、ドレルズを結成した。ベル以外のメンバーは、ウィリー・パーネル、ジェイムズ・ワイズら。時期によって、様々なメンバーがいたようだ。

 高校進学後の1960年には、後に「タイトゥン.・アップ」の共作者となるビリー・バトラー(ジェリー・バトラーの弟のR&Bシンガーとは同名異人である)が加入。アーチー・ベル、ビリー・バトラー、ジェイムズ・ワイズ、ジョー・クロスの4人になったドレルズは、地元のタレント・コンテストの常連となり、そこでヒューストンのラジオ局、KCOHのDJだったスキッパー・リー・フレイザーと面識を得る。1966年、フレイザーが契約を申し出て、アーチー・ベル&ザ・ドレルズはフレイザーが立ち上げたレーベル、Ovideの最初のアーティストとなり、デビュー・シングル「She’s My Woman, She’s My Girl / Yankee Dance」をリリースする。

 Ovideを設立したフレイザーは、続いて、第二のアーティストとも契約した。それがTSUトロネイドーズだ。TSUというのはTEXAS SOUTHERN UNIVERSITYの略称。大学内で結成されたバンドだが、ヒューストンのナイトクラブで人気を博していた。1965年、彼らはフレイザーのラジオ番組のジングルを演奏して、最初の録音を経験する。そして、1966年、Ovideレーベルからデビュー・シングル、「The Toronado / A Thousand Wonders」をリリースした。

 1967年には、アーチー・ベル&ザ・ドレルズがOvideからの二枚目のシングル「Soldier Prayer 67 / One on One」をリリース。この「Soldier Prayer 67」は、アルバム『タイトゥン・アップ』の9曲目にも収録されているが、歌詞を読むと、それがアーチー・ベルの実話にもとづく内容なのが分る。冒頭の4行はこんな具合だ。

 The time has finally come

 For me to go Vietnam

 No, I don’t really wanna go

 My heart is pounding strong

 ついに、その時が来てしまった

 ヴェトナムに行く時だ

 僕は行きたくない

 心臓がどきどきしている

 1967年5月、アーチー・ベルにアンクル・サムからの召集令状が届いた。それを直接的に歌ったのが、この曲だったのだ。当時のR&Bのコーラス・グループのシングルとしては、異例の内容だったろう。が、スキッパー・リー・フレイザーはモハメド・アリやバーバラ・ジョーダン(ヒューストン出身の黒人女性で、民主党下院議員となった、公民権運動のリーダーの一人)などとも親交があったようで、メッセージ・ソングにも抵抗感がなく、むしろ、ヴェトナム/徴兵を歌い込んだ曲を積極的に世に問おうとしたのかもしれない。


 アーチー・ベルの入隊によって、ドレルズは存続自体があやぶまれることになる。ベルはルイジアナのブートキャンプに入ったが、わずかな休暇を得るとドレルズの活動に当てた。そんな中で、1967年の暮に制作されたのが、Ovideからの三枚目のシングル「Dog Eat Dog / Tighten Up」だった。フレイザーはベルのオリジナル曲、「Dog Eat Dog」をA面と考えていた。過去のシングル2曲が6/8拍子のスローな曲だったのに対して、アップテンポで都会的なソウル・フィーリングのある曲だ。ところが、フレイザーの同僚であるKCOHのDJ、グラディス・ヒルはB面の「タイトゥン・アップ」を好んでかけた。すると、ヒューストンの街中がその曲に沸き返ったのだった。

 では、その「タイトゥン・アップ」はどのようにして生み出されたのか? これについては関係者の証言が食い違うところもある。確かなのは、レコーディング・セッションが1967年12月に二日間に渡って行われたということだ。初日には、TSUトロネイドーズが「タイトゥン・アップ」のインストゥルメンタルを録音した。それはもともと、彼らがステージで必ず演奏するオリジナル曲だったのだ。

 「タイトゥン・アップ」を録音したTSUトロネイドーズのメンバーは以下の8人だったと思われる。ドワイト・バーンズ(ドラムス)、ジェリー・ジェンキンス(ベース)、カール・トーマス(ギター)、ロバート・サンダーズ(オルガン)、リロイ・ルイス(サックス)、クラレンス・ハーパー(トランペット)、ネルソン・ミルズ(トロンボーン)。しかし、「タイトゥン・アップ」のシングルには、彼らの名前は一切、クレジットされなかった。「タイトゥン・アップ」の作詞作曲者には、アーチー・ベルとビリー・バトラーが登録された。

 アルバム『タイトゥン・アップ』のライナーノーツでは、スキッパー・リー・フレイザーが録音はヒューストンのナンバーワン・ソウル・バンド、TSUトロネイドーズとともに行われた、と書いている。1996年の桜井ユタカさんのライナーノーツにも同様の記述があるが、トロネイドーズのスペルに間違いがある(TORONADOSもしくはTORONADOESがレコード上のクレジットだが、TORONADORSとされている)。

 アルバムのライナーノーツに一行だけ記述を得たとはいえ、「タイトゥン・アップ」というキラー・ダンス・チューンが、もともとはテキサスの大学の学生バンドの持ち曲であった、ということを知る人は現在でも一部にとどまるだろう。ベーシストのジェリー・ジェンキンスは2011年に死去したが、ヒューストンのローカル紙に載った死亡記事では享年62歳だった。逆算すると、「タイトゥン・アップ」のレコーディング時には19歳。後のダンス・ミュージックにどれだけの影響を与えたか分らないあのベースラインは、十代の大学生が弾いたものだったのだ。だが、ジェリー・ジェンキンスは1969年には兵役に取られ、音楽活動を中断せねばならなくなる。

 TSUトロネイドーズのリーダーはサックス奏者のリロイ・ルイスで、彼は1965年にバンドを結成した。学生バンドゆえ、就職や兵役でメンバーチェンジがあり、ジェリー・ジェンキンスは三代目のベーシストだった。バンドの当初のレパートリーはソウル・ジャズ的なインストゥルメンタルが主体だったが、ギタリストのカール・トーマスがヴォーカルを取るようになり、さらに、彼の弟のウィリー・トーマス(ギター、ヴォーカル)が加入して、ヴォーカルの比重が増えていったようだ。

 1966年から1970年にかけて、TSUトロネイドーズはOvide、Volt、アトランティックなどに10枚ほどのシングルを残しているが、LPは発表するに至らなかった。1999年になって、タフ・シティ参加のファンキー・デリカシーズ・レーベルが、彼らのシングルや未発表音源を収録した2枚のコンピレーションLPをリリース。2002年には25曲入りのコンピレーションCD、『TSU Tornadoes - One Flight Too Many: More Rare And Unreleased Houston Funk』もリリースされた。「タイトゥン・アップ」から月日を経ること30年あまり。これらのリイシュー盤によって、ようやく、TSUトロネイドーズというバンドの存在は広く知られるようになったと言っていいだろう。


 僕がTSUトロネイドーズの音源に触れたのたのも、このファンキー・デリカシーズのリイシューによってだが、ともかく驚いたのは、その洗練された音楽性だった。テキサスのバンドにもかかわらず、ノーザン・ソウルの香りがする。しかも、60年代の録音であるはずなのに、70年代のバンドのようなサウンドをしている。不思議だった。だが、ある日、ふっと気がついた。現代から見ているから、僕はそう考えるのだ、ということに。

 スキッパー・リー・フレイザーの自伝『Tighten Up: The Autobiography of a Houston Disc Jockey』によれば、「タイトゥン・アップ」の録音は、ある日、リロイ・ルイスがフレイザーのもとにやってきたことが発端だったという。ルイスはバンドがクラブである曲を演奏すると、誰もがダンスフロアに突進し、熱狂してダンスする、ということを告げた。そして、まだタイトルもなく、歌詞もないその曲に、アーチー・ベル&ザ・ドレルズをフィーチュアして録音できないか、という話を持ちかけた。フレイザーはルイスのアイデアに乗り、タイトルは「タイトゥン・アップ」で行こう、と返したとしているが、これには異論もある。

 アーチー・ベルは、「タイトゥン・アップ」という言葉を生み出したのは、ビリー・バトラーだとしている。ある日、ラジオから流れる曲に合わせて、バトラーが見たことのないダンスを始めた。そのダンスは何だ?とベルが問うと、バトラーが「タイトゥン・アップ」だと答えたのだという。

 前述のように、「タイトゥン・アップ」のレコーディングの初日には、TSUトロネイドーズによって、インストゥルメンタルが録音された。二日目にアーチー・ベルがその上にヴォーカルを録音したが、ベル以外のドレルズのメンバーは参加したのかどうか定かではない。後に録音された「タイトゥン・アップ(パート2)」にはコーラス・パートが付け加えられているが、オリジナルの「タイトゥン・アップ(パート1)」でヴォーカルを取るのはアーチー・ベルのみ。ドラム・ブレイクの前に、何人かが喋りあう「ガヤ」が聞こえるが、それがドレルズのメンバーによるものかどうかは分らない。(「タイトゥン・アップ(パート2)」の「ガヤ」では、アーチー・ベルがビル、ジョー、ジェイムズに呼びかける箇所があるところから、ドレルズがそこにいることが窺われる)。

 「タイトゥン・アップ」のヴォーカル・パートはアドリブによる喋り〜今日的にいえば、フリースタイルのラップとも言えるものだが、フレイザーによると、アーチー・ベルのヴォーカル・ダビングは25テイクから30テイクも繰り返され、午前三時くらいまでかかったという。理由はベルが各パートできちんと”Tighten Up”と叫ぶことをせずに、他のことを言ってしまうからだったとフレイザーは語っている。曲のコンセプトが、アーチー・ベルとビリー・バトラーによって事前に準備されたものだったら、そうはならないだろう。また、冒頭の”Hi Everybody, I’m Archie Bell and The Drells Of Houston”というパートはフレイザーが考えて、アーチー・ベルに言わせたものだという。そのくだりはラジオDJの喋り始めのフレーズに似ているから、フレイザーが普段やっていることをベルにコピーさせたと言われれば、頷けるものだ。

 「タイトゥン・アップ」の作詞作曲者がアーチー・ベルとビリー・バトラーになっていることについては、フレイザーは当時は自分も音楽ビジネスについて無知だったからだ、としている(とはいえ、「タイトゥン・アップ」の著作権は彼が設立した音楽出版社で管理されている)。

 「タイトゥン・アップ」の二日間のセッションが終わると、すぐにシングル盤がプレスされた。ということころからしても、それはアーチー・ベルがヴェトナムに送られる前に、もう一枚シングルを出すため、突貫で作られた曲だったように思われる。「タイトゥン・アップ」がラジオで人気を集めると、アーチー・ベル&ザ・ドレルズはツアーの要請を受けるが、入隊したベルには無理な相談だった。そこでフレイザーはどうしたかというと、何とベル抜きのドレルズをツアーに出したのだった。ジェイムズ・ワイズがベルに扮して、「タイトゥン・アップ」をやったが、誰もそのことには気づかなかった。というのも、人々はまだアーチー・ベルの顔を知らなかったからだ。

 ヒューストン・ローカルの無名のグループが、突如、全米で人気爆発したのは、「タイトゥン・アップ」のサウンドが革新的だったからに他ならないが、では、それはどういうポイントだったのか、もう少し楽理的な側面から見てみよう。

 1960年代後半、リズム&ブルーズのダンス・ナンバーと言えば、ジェイムズ・ブラウンの人気が圧倒的だった。JBファミリーの女性シンガー、マーヴァ・ホイットニーのバックを務めたりしていたTSUトロネイドーズも、当然ながら、その影響下にはあっただろう。リズム・セクションの反復するビートが曲の中心にあり、そこにラップ的なヴォーカルが乗るという点では、「タイトゥン・アップ」もまさしく、JBのダンス・ナンバーに通ずる構造を持っている。

 だが、JBクローン的なダンス・ナンバーならば、レア・グルーヴ〜レア・ファンクもののコンピレーションの中に、何百曲と見つけることができる。「タイトゥン・アップ」がそれらと決定的に違うのは、コード感において、過去のファンク・ミュージックにないものを打ち出していた点だ。ファンク・ミュージックの根幹にはブルーズがあり、それゆえ、和声的にはブルーズと同じく7th系のコードが多用される。ところが、「タイトゥン・アップ」はファンキーなダンス・チューンでありながら、ブルージーな7th系のコードではなく、メイジャー7thのコードによって彩られていた。これは1967年にあっては、ほぼ、ありえないことだった。だからこそ、「タイトゥン・アップ」はとびきりに新しかったのだ。しかし、なぜ、テキサス州ヒューストンのバンドがそんなアンサンブルを備え持っていたのか。それは長年、僕の頭を悩まし続ける謎だった。

 ヒューストンはジャズ・ミュージシャンを多く生み出している土地ではある。TSUトロネイドーズより上の世代で、彼らに影響を与えていそうな存在としては、ジャズ・クルセイダーズが思い当たる。メンバーのウェイン・ヘンダーソン(トロンボーン)、ジョー・サンプル(ピアノ)、ウィルトン・フェルダー(サックス)、スティックス・フーパー(ドラムス)は全員がヒューストン出身。1970年代にはクルセイダーズと改名し、フュージョン・ブームの中で人気を得る彼らは、洗練された和声感覚を持つミュージシャン達であり、TSUトロネイドーズが影響を受けていてもおかしくない。

 しかし、音源を追ってみると、ジャズ・クルセイダーズにしても、1960年代にはメイジャー7thのコードを使うことはほとんどなかった。ブルーズを基調にした彼らのソウル・ジャズは、7th系のコードで埋め尽くされていた。メイジャー7thのメロウな響きが聞こえるようになるのは、クルセイダーズに改名した1971年以後なのである。

 ここで、7thコードとメイジャー7th コードについて簡単に説明すると、ドミソのCコードの上に、上にシ♭を乗せると、ドミソシ♭のC7になる。ドミソのCコードの上に、上にシを乗せると、ドミソシのCメイジャー7になる。テンションとして加えられた音がシ♭かシか、半音違うだけだが、前者は苦さや物哀しさを滲ませた所謂ブルージーな響きを持ち、後者は透明感や浮遊感を感じさせる瀟洒な響きになる。1960年代までのブルーズ、ジャズ、R&Bを特徴づけていたのは、言うまでもなく、前者の響きである。

 メイジャー7thのコード自体はドミソシを押さえれば良いだけのことであり、クラシックにも民族音楽にも見つけることができるものだが、二十世紀のポピュラー音楽において、それが人気を得るようになったのは、二人の作曲家の力によるところが大きいだろう。一人はアントニオ・カルロス・ジョビンであり、もう一人はバート・バカラックである。アメリカでは、1964年3月に『ゲッツ/ジルベルト』のアルバムがリリースされ、「イパネマの娘」をはじめとするアントニオ・カルロス・ジョビンの曲が広く知られるようになる。1964年の同時期には、ディオンヌ・ワーウィックがバカラック作の「ウォーク・オン・バイ」をヒットさせた。「ウォーク・オン・バイ」はR&Bチャートでナンバーワンを記録。それはメイジャー7thのコードを効果的に使ったヒット曲がR&Bの世界に現れた最初の例と言っていい。


 とはいえ、「ウォーク・オン・バイ」は白人のソングライター、バート・バカラックの作品だった。アメリカのブラック・ミュージシャンがこぞってメイジャー7thのメロウな響きを使うようになるのは、1970年代になってからだ。それはリズム&ブルーズという言葉が、ソウル・ミュージックという言葉に取ってかわるタイミングともクロスしている。公民権運動を経て、意識変化したアメリカン・ブラックのノー・モア・ブルーズという想いが、ブルージーの逆を行くメイジャー7thのコードという形で、1970年代以後のソウル・ミュージックを彩ったのではないか。そんな風にも考えることができる。

 だが、1960年代の半ばのR&Bの世界では、スモーキー・ロビンソンやカーティス・メイフィールドのソングライティングにその萌芽は見えるものの、メイジャー7thのコードをサウンドとして強調して聞かせるような曲は、なかなか見当たらない。ましてや、ダンサブルな曲となると、ごく稀だった。北部の都市で、最も先を行っていたブラッック・ミュージシャンを挙げるなら、それはシカゴの若き兄弟、ダニエル・リード&バーナード・リードかもしれない。60年代後半以後のノーザン・ソウルを特徴づけるアッパーなメイジャー7th系のサウンドは、メイジャー・ランスの「Without A Doubt」やジャッキー・ウィルソンの「ウィスパーズ」(1966年)、アーティスティクスの「ガール・アイ・ニード・ユー」(1967年)あたりに端を発するように見えるが、それらの作曲者に名を連ねていたのがギタリストのダニエル・リードとベーシストのバーナード・リードだった。新しいハーモニー感覚を持つ彼らは、プロデューサーのカール・デイヴィスに才能を買われて、ブランズウィック・レーベルの制作チームを招き入れられることになる。そして、アレンジャーのソニー・サンダーズとともに、野心的なアンサンブルを持つ作品群を生み出していくのだが、とはいえ、それがポピュラーになるのは「タイトゥン・アップ」に一年ほど遅れた、ヤング・ホルト&リミティッドの「ソウルフル・ストラット」(1968年)〜バーバラ・アクリンの「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」(1969年)のヒットを待つことになる。

 (ちなみに、この2曲はユージン・レコードの作になる同一の曲で、リズム・トラックも同じものが使われている。先に作られたのはバーバラ・アクリンのヴァージョンの方で、演奏しているのはアーティスティクスのバックアップ・メンバーだったダニエル・リード、バーナード・リード、ドラマーのクィントン・ジョセフら。ヤング・ホルト&リミティッドのメンバーは全く参加していないと言われる)


 「タイトゥン・アップ」の和声をより具体的に見ていくと、まず、キーはF#である。反復されるツー・コードのうち、最初のコードはF#maj7。ギターのカッティングのトップの音はFで、メイジャー7thの響きが強調されている。二つ目のコードはベースがC#を取って、分数和音的になっている。それはG#m9 on C#としても良いだろうが、トップの音がB♭(A#)になるギターのコードの響きだけを聞くと、F#maj7 → Bmaj7という二つのメイジャー7thコードの反復に聞こえるので、Bmaj7 on C#という分数和音にした方が感覚的にすっきりする気がする。

 ちなみに、ベースラインだけを取り出すなら、それは7th系のコードを当てても成り立つものだ。「タイトゥン・アップ」のベースラインに対して、ギターがF#9 → C#9というような7th系のコードでカッティングを入れたら、JB風の土臭いファンク・チューンが出来上がるだろう。

 TSUトロネイドーズはどうして、そこでメイジャー7thの響きを選び取ったのか。ジャム・セッションの中で、ギタリストが最初のコードと二番目のコードを逆に弾いたのではないか?などと考えてみたこともあったが、どうやら違うようだ。というのも、TSUトロネイドーズの他の曲を聞いてみると、そこにも同じようなアンサンブルが沢山見つかるからだ。Ovideからの1966年のデビュー・シングル「A Thousand Wonders」からして、ホーン・セクションがメイジャー7thの響きを強調したリフを持っている。1969年にアトランティックからリリースされたシングル「Got To Get Through To You」なども然りだ。



 ホーン・セクションがメイジャー7thの響きを強調したリフを演奏しているということは、それは吟味されたアレンジの産物であるということだ。リロイ・ルイス、カール・トーマス、ロバート・サンダーズら、複数のソングライターの曲で、同じようなメイジャー7thを使ったアンサンブルが聞かれるところからして、それは彼らのバンド・サウンドに組み込まれていた手法だったのだろう。ダンサブルな曲の中で、メイジャー7thの音をリフに乗せて聞かせることを彼らは結成当初から試行していたのだと思われる。

 しかしながら、TSUトロネイドーズはヒューストン・ローカルの学生バンドに過ぎなかった。少し後にニューヨークやシカゴやフィラデルフィアのミュージシャン達が同じことをやって、人々はそれをノーザン・ソウル的な感覚として記憶した。

 だが、実はそれはノーザンならぬサザンな感覚であり、ルーツはテキサス州ヒューストンに辿ることができるのではないだろうか。そういえば、アーチー・ベルの1966年のデビュー曲「She’s My Woman, She’s My Girl」は、テキサス州サン・アントニオの白人グループ、サニー&ザ・サンライナーズをバックに録音されたというが、この曲もメイジャー7thのコードから始まる。1966年にすでに、テキサスのミュージシャンの間では、メイジャー7thの響きが流行しつつあったのかもしれない。


 そんな和声感に加えて、「タイトゥン・アップ」にはリズム面にも斬新さがあった。BPMは125前後で、現代のハウス・ミュージックとも親和する。ギターやホーンにはラテン的なシンコペート感覚があり、その点でもハウス・ミュージッックに連なるものがあるが、これは彼らが少なからず、ブーガルーの影響を受けていたからではないかと思われる。

 ブーガルーというのは、1966年から68年くらいにかけてニューヨークのラテン・ピープルの間で大流行した音楽だ。古いキューバ音楽の模倣ではなく、同時代のリズム&ブルーズやロックの要素を取り入れて、荒々しい若者のダンス・ミュージックとしてのラテンを生み出そうとしたのがブーガルーだが、その流行はソウル・ジャズの世界にも飛び火した。前述のジャズ・メッセンジャーズなども、ブーガルー的な曲を数多く演奏している。その名も『チリ・コン・ソウル』というラテン色の強いアルバムがあるあたりは、メキシコと接するテキサス州出身のミュージシャンのバックグラウンドを窺わせる。


 同様に、TSUトロネイドーズもブーガルーに反応したバンドだったに違いない。デビュー・シングルに収められた「TORONADO」という曲はまさにブーガルー・インストというべき趣だし、1968年にアトランティックからリリースされたシングル「Getting The Corners」などもホーン・アレンジや手拍子の入れ方に、ブーガルーの影響を強く感じさせる。ラテン・パーカッションこそ入っていないものの、彼らはシンコペートした楽器間のアンサンブルで、巧みにラテンの感覚を表出していた。そして、それは「タイトゥン・アップ」からも香るのだ。”Make It Mellow”のかけ声でブレイクした後の、ちょっと間の抜けたホーンのフレーズは、メキシコのマリアッチのバンドのそれを模したもののようでもある。

 全米チャートのナンバーワンになった「タイトゥン・アップ」は当然ながら、ラテン系のミュージシャンの耳にも届いたことだろう。面白いことに、1968年には「タイトゥン・アップ」へのブーガルーからの返答とも思えるような曲もリリースされてもいる。ハーヴェイ・アヴェーン・ダズンの「Never Learn To Dance」だ。

 ハーヴェイ・アヴェーンはロシア人とポーランド人の混血だが、ブルックリンで生まれ育ち、ラテン音楽を演奏するようになったミュージシャンだ。ピアノとヴィブラフォンを演奏する彼は、1966年にはファニア・レコードのスタッフになり、プロデューサーとしてラリー・ハーロウやレイ・バレットを手掛ける傍ら、自身の率いるハーヴェイ・アヴェーン・ダズンでの活動も続けた。1968年にはブーガル〜ラテン・ソウル色強い二枚のアルバム、『Viva Soul』と『Harvey Averne Dozen』を発表。前者はアトランティックからのリリースで、5月にシングルカットされた「My Dream」はメイジャー7thと分数和音を使ったメロウなソウル・フィーリング溢れる曲だ。ストリングスやヴィブラフォンを配したアレンジには、後のフィラデルフィア・サウンドを思わせる先駆性がある。

 続いて、同年のファニアからのセカンド・アルバム『Harvey Averne Dozen』よりシングル・カットされたのが「Never Learn To Dance」で、これは「タイトゥン・アップ」と同じく、ソロのベースラインから始まる。コードこそマイナーながら、ベースラインの譜割りは「タイトゥン・アップ」のジェリー・ジェンキンスのそれをほぼなぞっている。「ダンスなんて習ったことないぜ」という歌詞を含め、「タイトゥン・アップ」へのアンサー・ソングのようにも聞こえる曲だ。


 TSUトロネイドーズはブーガルーに影響を受けていたが、その影響をラテン・ミュージシャンにもフィードバックした。ブーガルーの感覚を織り込みながら、全米ナンバーワン・ヒットをものにした「タイトゥン・アップ」のビート感やアンサンブルが、彼らを刺激しなかったはずがない。ラテンとソウルの融合を目指していたハーヴェイ・アヴェーンの例は、とても象徴的だ。そして、その流れは1970年代のサルソウル系のディスコ・ミュージックにも引き継がれ、後のハウス・ミュージックにも繋がっていった。と考えてみると、「タイトゥン・アップ」のリズムが、現代のハウス・ミュージックと親和するのも、当然と思えてくる。

 だが、そうした後の音楽への影響についての話をするには、もう少し、アルバムの解説を続けてからの方が良さそうだ。

 アーチー・ベルはヴェトナムで足に銃創を負い、1968年5月に「タイトゥン・アップ」が全米ナンバーワンになった時は、ドイツの米軍基地にいたとされる。スキッパー・リー・フレイザーの自伝や、アーチー・ベル自身へのインタヴューでもそう語られているが、とすると、幾つかの疑問が湧く。では、1968年3月発売の「タイトゥン・アップ(パート2)」はいつ、どのように制作されたのか? 1968年5月発売のアルバム『タイトゥン・アップ』はいつ、どのように制作されたのか?

 アーチー・ベルの正式な除隊は1969年4月とされている。軍は彼に休暇には音楽活動をすることを許したというが、1968年にはアーチー・ベル&ザ・ドレルズはさらに3枚のシングルを発表。1969年2月にはセカンド・アルバム『アイ・キャント・ストップ・ダンシング』を発表している。ヴェトナムで負傷したベルが、短い休暇を使って行ったとは思えない仕事量だ。ほどなくコンサートにも復帰し、テレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』にも出演している。というところからして、除隊を待たず、軍はアーチー・ベルにかなりの自由度で、音楽活動を行うことを許していた、と考えた方が納得はいく。

 あるいは、ヴェトナムで銃撃により負傷という話も本当だったのか、と思えなくない。戦地での負傷は衝撃的な体験であったはずだが、ベルもフレイザーも多くを語っていない。ベルがヴェトナムに赴いたとすれば、1968年1月以降だろうから、すぐに負傷して、すぐに音楽活動に復帰、後遺症もなかったことになる。憶測だが、「タイトゥン・アップ」が全米でヒットする中、その歌手がヴェトナムで戦死となると、世論への影響が大きい。それを懸念した軍は、ベルをヴェトナムには送らず、あるいは、呼び戻して、ドイツの基地に置いたのではないだろうか。ディスコグラフィーと見合わると、その方が辻褄は合ってくる。

 「タイトゥン・アップ(パート2)」は、パート1が録音された時のアウトテイクを使い、ドレルズの残りのメンバーがコーラスとガヤをオーバーダビングして作られているようだ。コーラスは二声で人数が少ない。また、ガヤの声は「パート1」とは異なるように聞こえる。アーチー・ベルのヴォーカルは「パート1」録音時のテイクなのか、「パート2」のために録音されたものか、音源からは判断がつかない(後者は時期的に難しそうだが、ガヤとのかけあいがあるので、可能性は捨てきれない)。そして、アルバム『タイトゥン・アップ』の残る収録曲も、ベルの参加については疑問が残るものが多い。

 Ovideからのリリースでローカル・ヒットした「タイトゥン・アップ」が、アトランティックから再リリースされたのは、テキサス〜ルイジアナの音楽シーンの顔役だったプロデューサー、ヒューイ・P・モーの口利きによるという(モーはバーバラ・リンを発掘して、アトランティックに売り込んだ直後だった)。先を見越したアトランティックは、スキッパー・リー・フレイザーにすぐにアルバムを録音することを提案した。と言われても、アーチー・ベルはいないし、アルバムに収録する曲も用意されていない。しかし、アトランティックは彼らに3月末のパート2入りの「タイトゥン・アップ」のシングル・リリース以前に、アルバムを完成させることを求めた。

 アルバムのレコーディングは、ニューヨークのアトランティック・スタジオで行われた。フレイザーとTSUトロネイドーズ、そして、ベル以外のドレルズのメンバーはヒューストンからニューヨークに向かう。降って涌いたチャンスに一番興奮していたのは、TSUトロネイドーズのメンバー達だったに違いない。

 アルバム『タイトゥン・アップ』の全10曲中の2曲は、TSUトロネイドーズのカール・トーマスの曲だ。「ユー・アー・マイン」と「ア・サウザンド・ワンダーズ」だが、どちらも1967年にTSUトロネイドーズ名義のシングルで発表済みの曲である。そして、アルバムに収録されたアーチー・ベル&ザ・ドレルズ名義のヴァージョンも、歌っているのはカール・トーマスに思われる。ドレルズのコーラスは入っているかもしれないが、アーチー・ベルは不参加に違いない。

 「ノック・オン・ウッド」はエディ・フロイドのカヴァー、「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」はウィルソン・ピケットのカヴァーで、いかにもアトランティックらしい選曲だが、この2曲に聞けるしゃがれた喉のリード・ヴォーカルもベルではなさそうだ。ドレルズの誰かだと思われる。

 残る4曲、「アイ・ドナ・ワナ・ビー・ア・プレイボーイ」、「ギブ・ミー・タイム」、「ホエン・ユー・レフト・ハートエイク・ビギャン」、「兵士の祈り、1967」が、アーチー・ベルがリードを取っている曲と考えられるが、このうち、「兵士の祈り、1967」はOvideからのシングルの再録。「ギブ・ミー・タイム」はサニー&ザ・サンライナーズをバックにしたもので、作曲者もグループのリーダーであるサニー・オズマ。これはサン・アントニオですでに録音してあった音源であろう。

 となると、ニューヨークでのアルバム・セッションにアーチー・ベルが参加していたとしても、それは「アイ・ドナ・ワナ・ビー・ア・プレイボーイ」、「ホエン・ユー・レフト・ハートエイク・ビギャン」の2曲に限られそうだ。あるいは、この2曲も先に録音されていた音源の可能性はある。

 思えば、アルバム『タイトゥン・アップ』のジャケットはイラストで、コーラス・グループのデビュー・アルバムらしくないが、それもアーチー・ベル不在の中で、ツアーやレコーディングを進めねばならなかった事情を反映していたのかもしれない。

 このようにして曲を寄せ集め、アルバム『タイトゥン・アップ』は何とか完成を見た。TSUトロネイドーズはレコーディングをきっかけに、アトランティックからのシングル・リリースを決めた。しかし、「タイトゥン・アップ」に続くアーチー・ベル&ザ・ドレルズのシングルは、アルバム収録曲の中には見当たらず、新しい候補曲も考えられない状態だった。先行きを案じたアトランティックは、スキッパー・リー・フレイザーに次作のプロデューサーを提案する。ケニー・ギャンブル&レオン・ハフだった。

 ギャンブル&ハフは、アーチー・ベル&ドレルズのニュージャージーでのコンサートを観て(そこにはベルも復帰していた)、すぐに楽屋を訪問し、ベル本人に彼らをプロデュースすることを申し出た、とされている。といっても、当時のギャンブル&ハフは、1967年にソウル・サヴァイヴァーズがヒットさせた「Express Way To Your Hert」で注目を集めたばかりの、駆け出しのソングライター・チームだ。彼らがフィラデルフィアを拠点に大成功するのは1970年代。この時は仕事を求めて、営業をかけたところ、運良く、アトランティックからテキサスのコーラス・グループの制作を任されたというのが実際ではないかと思う。


 「タイトゥン・アップ」のシングルは200万枚を売る大ヒットになっていた(最終的には300万枚に達する)。その次のシングルを制作するというのは、デカイ仕事である。「タイトゥン・アップ」のイメージを引き継ぐ必要があるが、同じことを二度はできない。「タイトゥン・アップ」は偶然から生まれた1曲だったし、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの本質はコーラス・グループである。そんな込み入った状況に対して、ギャンブル&ハフがプロらしい妥協点を見出し、完成させたのが1968年7月に発表されたシングル「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」だった。


 このフォローアップ・シングルの内容は、「タイトゥン・アップ」がその後の音楽にどのような影響を与えたかを考える上でも、とても興味深い。WikipediaのArchie Bell & The Drellsの項では、レコーディングはフィラデルフィアで、ボビー・マーティン・オーケストラとともに行われたとされている。2013年に日本発売された『アイ・キャント・ストップ・ダンシング』のリマスターCDの日向一輝さんによるライナーノーツでも、フィラデルフィア録音であるように書かれているが、これらは間違いだろう。「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」と「ドゥー・ザ・チュー・チュー」のレコーディング・デイトは1968年6月18日。この時点ではまだフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオはオープンしていない。

 ケニー・ギャンブルによれば、2曲の録音はニューヨークのアトランティック・スタジオで行われた。前者はトム・ベルが、後者はボビー・マーティンがアレンジを担当。演奏陣がフィラデルフィアからやってきたボビー・マーティン周辺のミュージシャンだったのも間違いないだろう。

 2013年9月13日に他界したボビー・マーティンは、後のMFSB(シグマ・サウンドを拠点にしたフィラデルフィアのミュージシャン集団)のアレンジャー/コンダクターで、ギャンブル&ハフとともに数々のヒット曲を生み出した。フィラデルフィアという地名を世界に知らしめ、ディスコ・ブームの象徴的な1曲にもなったMFSBの1974年の大ヒット「TSOP (The Sound of Philadelphia)」もボビー・マーティンの仕事だ。


 トム・ベルはギャンブル&ハフと並ぶフィラデルフィア・サウンドの立役者であり、バート・バカラックにも比する洗練された技法で、ソウルの名曲を数多く生み出した偉大な作曲家でもある。1968年初めにはデルフォニックスの「ララは愛の言葉(Lala Means I Love You)」のヒットで、名を上げていた。こうして見ると、「タイトゥン・アップ」のフォローアップ・シングルという大仕事のために、ギャンブル&ハフがフィラデルフィアの才能を総動員して、ニューヨークに向かったのが分る。クレジットはないものの、ギターはボビー・イーライは一員としてニューヨークに向かったと証言している。ドラムはアール・ヤング、ベースはロニー・ベイカー、キーボードはトム・ベル、ヴィブラフォンはヴィンセント・モンタナだったと思われる(ヴィンセント・モンタナも2013年4月13日に他界した)。

 ブラック・ミュージックの聖地とも言えるアトランティック・スタジオでのレコーディングに、ギャンブル&ハフ一行はかなり緊張したという。一方、アーチー・ベル&ザ・ドレルズはというと、何とドレルズは「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」と「ドゥー・ザ・チュー・チュー」の録音には参加していない。ドレルズのかわりに、アーチー・ベルのバックでコーラスを加えているのは、ギャンブル&ハフである。あるいは、ドレルズはこの時、アーチー・ベル抜きでツアーを続けていたのかもしれない。

 「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」は所謂「サビ始まり」の曲だ。サビのリズム・トラックは「タイトゥン・アップ」をなぞった作り。コーラスのリフレインは「タイトゥン・アップ(パート2)」に聞けたコーラスとほぼ同じ音を取っていて、ちょっと譜割りを変えただけとも言えるメロディーだ。

 ギャンブル&ハフはそんなサビの次に、違うコード進行のヴァースを足して、「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」を作り上げている。スキッパー・リー・フレイザーによれば、ギャンブル&ハフが起用されたのは、TSUトロネイドーズよりも曲が書けるからだったというが、確かにそのソングライティングは職人的だ。だが、違うコード進行を継ぎ足し、歌謡性のあるメロディーを綴った「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」の作曲手法は、ティン・パン・アレイの伝統に沿った、ある意味、ノスタルジックなものでもある。

 現代のクラブ・ダンス・ミュージックの作曲家であれば、そこで曲を展開させず、サビのリズムやコードを保った上で、第二のメロディー、第三のメロディーを紡ぎ出すところであろう。その方がループ感を損なわず、ダンスフロア向きの曲が出来上がるからだ。「タイトゥン・アップ」が持っていたのは、まさしく、そのループ感覚だった。同じリズム・トラックがずっとキープされる。その中で、ベースを聞かせたかと思えば、ギターを加え、オルガンを加え、という形で、あたかもダブ・ミックスのような聞かせ方もしている(ただし、レコード上でそうやって各パートの演奏を順に聞かせるアイデアは、キング・カーティスが1967年9月に出したシングル「メンフィス・ソウル・シチュー」ですでにやっていた。TSUトロネイドーズはそれを真似したものと思われる)。ブレイク時の唐突かつユーモラスなホーンのフレーズが、サンプリング/カットアップ的に聞こえるところなども、1980年代以後のクラブ・ダンス・ミュージックの感覚に相通ずる。

 ソングライター・チームだったギャンブル&ハフは、「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」の制作の時点ではまだ、そこまで研ぎすまされたダンス・ミュージックに対する感覚/手法を持ち合わせていなかったのだろう。「タイトゥン・アップ」のループ感覚を投げ捨ててしまった彼らの曲の構造がそれを物語っている。

 「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」は1969年7月にリリースされたが、R&Bチャートの5位を得るにとどまった。アトランティック・レコードにとっては、不満の残る結果だったかもしれない。が、ギャンブル&ハフにとっては、このアーチー・ベル&ザ・ドレルズの制作仕事こそは、かけがえのないレッスンだったのではないだろうか。そして、それは以後のギャンブル&ハフ、というよりはフィラデルフィア・サウンド全体に大きな影響を残したと考えられる。

 「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」のサビでは、メイジャー7thの音を強調したホーン・セクションのリフが使われている。TSUトロネイドーズが得意とした手法だ。アレンジャーのトム・ベルはそれを継承して、「アイ・キャント・ストップ・ダンシング」に使ったのだ。

 1968年夏、フィラデルフィアにシグマ・サウンドがオープンすると、ギャンブル&ハフやトム・ベル、後のMFSBの面々らは、そこを拠点に実験的なダンス・チューンを数多く生み出すようになる。2004年にソウル・ジャズ・レコードからリリースされた二枚のコンピレーションCD、『Philadelphia Roots』、『The Sound of Philadelphia: Funk Soul & The Roots of Disco, 1965-73』を聞くと、彼らの60年代後半の歩みがよく分る。中でも僕の耳を惹きつけるのが、1968年暮れにブラザーズ・オブ・ホープ名義で発表された「I Gonna Make You Love Me」というインストゥルメンタルだ。「I Gonna Make You Love Me」は1966年にギャンブル&ハフがディー・ディー・ワーウィックに書いた曲で、オリジナルはスローな歌ものである。だが、トム・ベルを加えて制作されたブラザーズ・オブ・ホープのヴァージョンでは、ダンサブルなソウル・ジャズに生まれ変わっている。そして、そこではホーン・セクションがメイジャー7thの音を強調したリフを聞かせるのだ。


 それは1970年代のフィラデルフィアを予感させる開放感とゴージャスさを備えた1曲でもあるのだが、そのアレンジ/プロダクションにアーチー・ベル&ザ・ドレルズの裏方であったTSUトロネイドーズや、ヤング・ホルト&リミティッド〜バーバラ・アクリンの裏方であったバーナード兄弟達の影響を見るのはたやすい。ソウル・ミュージックの歴史を書き換えたアンサング・ヒーロー達がどこにいたか、それを指し示す刻印を僕はその曲の中に、確かに聞き取ることができる。

 ギャンブル&ハフは1971年にフィラデルフィア・インターナショナル・レコーズを設立し、トム・ベル、ボビー・マーティン、ヴィンセント・モンタナ以下の制作スタッフ、シグマ・サウンド・スタジオ、そして、MFSBの名のもとに結集したミュージシャンとともに一大帝国を築き上げていく。そして、70年代のフィラデルフィア・サウンドの中では、ダンスフロアに向けた「ループ感覚」が研ぎすまされていった。1974年にはヴィンセント・モンタナが離反して、サルソウル・レーベルを興し、ブーガルーの感覚を引き継いだラテン・ディスコ・サウンドの中で、「ループ感覚」をより尖鋭化させる。前述のように、それらは初期のハウス・ミュージックへとも繋がっていく。こうして書いてくると、アーチー・ベル&ザ・ドレルズの「タイトゥン・アップ」で蒔かれた種が、どれほどの樹木を成長させたかが分るだろう。

 ただし、アーチー・ベルというアーティストにとっては、それはキャリアの障害になるものだったかもしれない。「タイトゥン・アップ」の印税は巨額だったろうが、そこでのコミカルな喋りのイメージは、アーチー・ベルについて回ることになった。これは苦い経験だったに違いない。本来、彼はジャッキー・ウィルソンやサム・クックをめざしたシンガーであった。そして、「タイトゥン・アップ」をめぐる喧噪が過ぎ去った後は、ドレルズを率いて、堅実な活動を積み重ねた。

 1971年に3枚のアルバムを残してアトランティックを離れた後、アーチー・ベル&ザ・ドレルズはマイアミのTK傘下のグラデス・レーベルに移籍。その後、1975年にギャンブル&ハフのTSOPレーベルに迎え入れられて、70年代後半はフィラデルフィア・サウンドの一翼を担うコーラス・グループとして活動した。僕が彼らの作品で最も好きなのは、後期フィリーのプロデューサー・チーム、マクファデン&ホワイトヘッドと組んだ1976年のアルバム『Where Will You Go When The Party's Over』だ。このアルバムからヒットした「Don't Let Love Get You Down」はフィリー史上でも屈指のミッドテンポ・グルーヴ。「タイトゥン・アップ」の頃とは声も変わったアーチー・ベルの、自分の道を取り戻した充足感が、音楽に溢れ返っている。

 TSUトロネイドーズは、アルバム『アイ・キャント・ストップ・ダンシング』でも10曲中5曲で、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのバックを務めた。カーティス・メイフィールド作の「I’ve Been Trying」で、インプレッションズのオリジナルのストレートなコード進行に対して、カール・トーマスのギターがメイジャー7thのコードを当てていくあたりに、ノーザン・ソウルの一歩先を行っていた彼ららしさが出ている。

 しかし、TSUトロネイドーズのメンバーで、その後、ミュージシャンとして華のあるキャリアを築いた者はいない。バンドは1971年に分裂。リロイ・ルイス、ジェリー・ジェンキンス、ネルソン・ミルズはアラバマに拠点を移し、サウス・ファンク・ブルーバード・バンドというグループで活動を続け、1977年にヒューイ・P・モーのクレイジー・ケイジャン・レーベルからアルバムを発表したが、成功には程遠かった。

 

【参考資料】

『タイトゥン・アップ』アーチー・ベル&ザ・ドレルズ

『& Now : Rare & Unreleased Houston』TSU Tornadoes

『One Flight Too Many : More Rare And Unreleased Houston Funk』TSU Tornadoes

『ベスト・オブ・メイジャー・ランス』

『アイム・ゴナ・ミス・ユー』ジ・アーティスティクス

『ヤング・ホルト・アンリミテッド』ソウルフル・ストラット

『セヴン・デイズ・オブ・ナイト』バーバラ・アクリン

『Viva Soul』Harvey Averne Dozen

『Harvey Averne Dozen』

『アイ・キャント・ストップ・ダンシング』アーチー・ベル&ザ・ドレルズ

『Philadelphia Roots』

『The Sound of Philadelphia: Funk Soul & The Roots of Disco, 1965-73』

『Where Will You Go When The Party's Over』Archie Bell & The Drells

『South Funk Boulevard Band』

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