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ジョニ・ミッチェルの『BLUE』

 『Blue』は地味なアルバムだと思っていた年月が長かった。初めて聴いたジョニ・ミッチェルのアルバムは『Ladies Of The Cannyon』。高校入学したばかりの15歳の時だった。衝撃だった。こんな曲作り、こんな歌い方がこの世にあるのだと思ったし、ローレル・キャニオンの一軒家で暮らすジョニとグラハム・ナッシュに強烈な憧れも抱いた。ジョニのような才気溢れる女性の傍らで、グラハム・ナッシュみたいに軽いボケをかます男になるのが理想と思ったりした。いや、これは今でも変わってないかもしれない。
 そんな『Ladies Of The Cannyon』の世界に比べて、次作となる1971年の『Blue』は入り込みにくかった。1972年の『For The Roses』になると、ジャズへの接近が始まり、ジョニのミュージカル・ジャーニーは起伏に富んでいくが、『Blue』はフォーク時代の最後の暗いアルバム。そんな印象を抱いていた。今思えば、この壮絶な歌集を高校生が理解できなかったのは当然とも言えるが。アルコールとセックスが香り、論争や別離に彩られる『Blue』というアルバムに強く惹かれるようになったのは、30代も半ばを過ぎてからだった。

 地味なフォーク・アルバムという印象を決定づけていたのは、冒頭の「All I Want」から聴こえるダルシマーの響きだろう。ジョニが演奏するのはアパラチアン・ダルシマー。グリニッチ・ヴィレッジのフォーク・シーンでリチャード・ファリーニャなどが使った楽器で、ジョニもその影響下で演奏するようになったに違いない。
 そのアパラチアン・ダルシマーの多用は『Blue』が旅のアルバムであることも象徴している。小型で軽量の弦楽器は携帯に適している。” I am on a lonely road and I am traveling traveling, traveling, traveling”と歌い出される「All I Want」は、ジョニはツアー中のホテルの部屋でその曲を書いたのだろう、という想像を導く。『Ladies Of The Cannyon』がローレル・キャニオンの一軒家での穏やかな日常を想起させたのとは対照的だ。
 ダルシマーが使われるのは全部で4曲。「風はアフリカから吹いてくる」と歌い出される「Carey」はナッシュと別れて、欧州旅行をしていたジョニがギリシャで書いた曲だという。「California」はその旅の最後にフランスで書いた曲だ。「A Case Of You」については後述するが、これらのダルシマー曲においては、ジェームズ・テイラーのギターがジョニに寄り添っている。ダルシマーは音楽的にはあまり複雑なことができない楽器だが、ジェームズのギターと絡みながら、過去のフォーク・シーンで聴こえていたダルシマーとは違うリズミックなアンサンブルをジョニは紡ぎ出している。
 しかし、ジェームズ・テイラーという新しい恋人は『Blue』の暗鬱さを決定づけた人物でもあった。二人で演奏する「All I Want」から滲み出すのは、尖ったアーティスト同士のぎくしゃくした愛憎劇だ。ジェームズは神経症的で、ドラッグの問題も抱えていた。ジョニの創作にしばしば批評をはさみ、それゆえ、二人は激しくぶつかることも多かったという。彼のためにセーターを編むような普通の恋愛に思いを馳せても、ジョニは自分を追求する孤独な旅路に戻るしかない。

 冒頭の「All I Want」でジョニはそんなジェームズと関係を示し、7曲目の「The Flight Tonight」では彼との別離を歌っている。今年の6月、ニューヨーク・タイムズに載った記事の中に、ジェームズのこの曲についてのコメントがあった。それを読んで驚いたのは、ジョニと別れる前にジェームズはマーサズ・ヴィンヤードに建てた家に彼女を連れて行こうとしていたという話だった。ジェームズの『One Man Dog』の録音にも使われたその家は、現在はカーリー・サイモンが長く暮らす邸宅として知られている。だが、ジェームズはもともとはジョニと暮らすつもりで、その家を建てたのだ。
 しかし、ジョニはそこに行くことを拒否し、ボストンのローガン空港からロスアンジェルス行きの飛行機に乗って、帰ってしまった。その晩、彼女は「The Flight Tonight」を書いたのだろうとジェームズは推測している。ジェームズにとって、マーサズ・ヴィンヤードは少年時代に毎夏、訪れた思い出の地。だが、大成功したジェームズが建てた邸宅に連れて行かれることは、独立心に富むジョニには耐え難いことだったのだろう。

 ピアノで歌われるタイトル曲の「Blue」もジェームズとの経験を醒めた批評性を添えて、振り返ったものに思われる。「All I Want」の中でも示された「Blue」という言葉が、そこでは「Hey Blue, here is a song for you」と擬人化される。呼びかけられる「Blue」とは,JTその人を指すと考えても良さそうだ。
 『Blue』というアルバムのレコーディング自体は、前作と同じようにハリウッドのA&Mスタジオで、エンジニアのヘンリー・ルーウィとともに行われている。そこには当然ながら、緻密な作品化のプロセスがあり、ジョニの人生を反映した私小説的な作品として読み込み過ぎるのも、その価値を矮小化することに繋がりかねない。だが、ジョニがこのアルバムで個人的な体験ととことん向き合うこと、そこから言葉を引き出し、歌を作ることで、自身と自身を取り巻く世界を俯瞰しようと試みたのは間違いない。
 無名時代に娘を育てられず、養女に出した経験を明かした「Little Green」はその際たるものだろう。人生における苦しいこと、酷いこと、みじめなことも、ここまで詩的に表現できるのだ。そういう驚きをジョニは私達の前に運んでくる。そんなジョニの歌を聴くことで、聴き手も自分の過去を肯定的に見つめなおすことができる。『Blue』というアルバムが半世紀に渡って、静かな支持を受けてきたのは、優れて、そんな薬効を持つ歌集だからではないかとも思える。


 アルバムの終盤に登場する2曲のとびきりの名曲も、どちらも回想的な内容だ。ピアノで「ジングル・ベル」のメロディーをなぞるところから始まる「River」は多くのアーティストにもカヴァーされるバラード。グラハム・ナッシュの献身的な愛情を捨ててしまったジョニの悔恨がクリスマスの人恋しさと重ね合わされる。だが、そこで歌われる「川」の様相はかなり特殊なものだ。「I wish I had a river I could skate away on ~ 川があったらスケートができるのに」とジョニは歌う。ジョニの育ったカナダのサスカチュワン州はマイナス40℃を記録するような極寒の地。そこではクリスマスには川は凍るものなのだ。
 「River」に歌われる川は私と貴方と隔てるものではない。目の前に凍った川があれば、貴方のもとまで滑っていけるのに、とジョニは歌うのだ。こんな特殊な「川」の歌が数百ものカヴァー・ヴァージョンを産んだというのも、考えてみれば、不思議なことだ。自身の中に「凍った川」のリアリティーを持ち合わせる歌手は数少ないだろうから。

 それでも、「River」はクリスマスへの思いを入り口にして、ジョニの個人的な回想へと降りていく。対して、『Blue』の中でも、あるいはジョニが書いたすべての曲の中でも、最も非凡なソングライティングに数えられるだろう「A Case Of You」は、とある男に向けた執念が吐き出される曲だ。


 その男とはレナード・コーエンである。そう証言するのはジュディ・コリンズだ。1967年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルで、ジョニとレナード・コーエンはジュディ・コリンズの主宰するワークショップに参加し、その楽屋で出会った。ジョニはレナードの詩人としての深みに圧倒され、自分の書く詩はナイーヴで愚かだと感じたと語っている。
 カナダ人としてのシンパシーもあった二人は不倫関係を持つ。ジョニはレナードに心酔し、彼のように言葉を扱うにはどんな本を読んだら良いのかと、相談するような関係だったという。レナードはニューヨークのチェルシー・ホテルを定宿としていた。ヴィレッジのアール・ホテルが定宿だったジョニもそこに移った。しかし、レナードにとってジョニは目の前に現れた若い女の一人だった。

 レナードのことを歌ったジョニの歌は他にもある。『Ladies Of The Cannyon』の「Rain Day House」はケベック州の彼の実家を訪れた時のことを歌っているとジョニは明かしている。「A Case Of You」は二人の恋が終わった後、バーでひとり、コースターの裏側にカナダの地図と彼の顔を描く、孤独な画家の独白だ。だが、その中でジョニは詩人として、レナードに挑む。
 「僕は北極星のように揺るぎない」と言ったレナードに対して、「いつも真っ暗でどこにあるか分からないわ」とジョニが返す場面があるが、2021年にリリースされた『Blue 50』に収録されたデモ・ヴァージョンはこの部分が異なり、「貴方は北の魚のように間抜けなだけよ」となっている。彼にどう言い返すかをジョニが何度も練り返したことが窺われる。

 この「僕は北極星のように揺るぎない」はシェイクスピアからの引用、もうひとつのレナードの言葉である「愛とは魂に触れること」はリルケからの引用だ。レナードのオリジナルの言葉ではなく、彼が引いてきた言葉を使ったのは意識的だろう。ジョニはある時、気づいた。レナード・コーエンやボブ・ディランは古典からの引用を使っているのだと。それを知って、彼らには醒めたとジョニは語っている。
 「貴方の言葉は借り物でしょ」という意地悪も「A Case Of You」には込められているのだ。レナードは甘く苦いワインに喩えられ、それは私の血の中に注ぎ込まれた、だから、時々、こんな詩の一節の中にもこぼれ出ると歌われる。それは詩人として、レナードから受けた影響を示唆する。だが、そのワインを1ケース飲んだって、私は立っていられる(もう酔い潰れたりしない)というのが、「A Case Of You」のメッセージなのだ。何という言葉の使い方だろう。「A Case Of You」もカヴァーする人は多いが、それが失恋の歌にとどまらない、かくも壮絶な、詩人としての闘争の産物だったと捉えている人はどれだけいるだろうか。
 私はもっと先まで行く。ジェームズ・テイラーという新しいパートナーを傍らに、レナード・コーエンに対して、そう宣言したのが「A Case Of You」だったとも言えるかもしれない。そして、彼女はフォークの世界から大きく飛び出していく。『Blue』の中でそれを予感させるのは、「Carey」に聴けるスティーヴン・スティルスのベースだ。あえて、プロのベーシストを呼ばず、スティーヴンのあてっずぽうなベースのラテン性と戯れるこの曲は、後のジャコ・アストリアスとの出会いへと繋がるものを感じさせる。
 『Blue』のようにダルシマーを使ったアルバムは、ジョニはもう二度と作ることがなかった。


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