上念司との「レイシスト・フレンド」裁判で私が東京高裁に提出した陳述書

陳 述 書
 
東京高等裁判所 御中
 
高橋健太郎             
2023年5月29日
 
1 私が音楽評論家となった経過とレイシズムについて
 私は1970年代の終わり頃から音楽評論の仕事を続けています。
 私にとって、音楽評論が職業として確立される大きなきっかけになったのは1982年にジャマイカに取材旅行したことでした。私はジャマイカのレゲエ音楽に強い興味を持っていました。そして、現地取材で専門的な知見を高めることで、多くのメディアから執筆依頼を受けるようになりました。
 ジャマイカのレゲエは強いメッセージ性を持つ音楽で、そこでは奴隷制や植民地支配の苦難がしばしば歌われます。そういうレゲエを聴くことから、私も「レイシズム」というテーマに向き合うことになりました。
 
2 レゲエとレイシズムについて
 ジャマイカからの移民が多く住むイギリスでもレゲエは高い人気を持ちます。移民やイギリス生まれの移民二世によるバンドが、ブリティッシュ・レゲエと呼ばれる音楽を作ってもいます。1970年代終わりには、こうした在英ジャマイカンによるブリティッシュ・レゲエと白人の若者によるロック・ミュージックが接近して、白人黒人混成のバンドも数多く生まれました。そういう中から「ロック・アゲインスト・レイシズム」(「レイシズムに反対するロック」)という運動も起こりました。
 今回の裁判で焦点となった「レイシスト・フレンド」という曲はスペシャルAKAというグループの作品ですが、彼らの前身はスペシャルズといって、この「ロック・アゲインスト・レイシズム」の中心的存在だった白人黒人混成のグループです。
 
3 イーノック・パウエルの「血の河演説」について
 私は1991年に最初の評論集『音楽の未来に蘇るもの』(太田出版)を上梓していますが、その冒頭の「ロックへの反語としてロック」という章で、こうしたイギリスの移民文化〜白人黒人混成のムーヴメントについて、書いています。
 「ロック・アゲインスト・レイシズム」は1960年代から70年代のイギリスに吹き荒れた「排外主義」との闘いでした。ジャマイカをはじめとするカリブ諸島からの移民がイギリスに増えたのは、1948年にイギリスが旧植民地の人々にも市民権を与えたことに始まります。が、移民の増加に対して、悪感情を抱くイギリス人の「排外主義」も高まりました。
 こうした「排外主義」を象徴する政治家の演説に1968年4月、保守党政治家のイーノック・パウエルが行った、通称「血の河演説」というものがあります。これは移民を制限するあらたな「人種法」を求めるものでした。今日ではこの「血の河演説」はイギリスにおけるレイシズムを象徴するものであり、イーノック・パウウェルはレイシストであると評価されます。しかし、1976年にロック・ミュージシャンのエリック・クラプトンが、イーノック・パウウェルへの賛同を示すという事件が起こりました。
 コンサートで「イーノックは正しい」「イギリスを白人だけの国にするべきだ」とクラプトンは述べたのです。「ロック・アゲインスト・レイシズム」はこのクラプトンの発言を問題視し、旧世代のスター・ミュージシャンに対して、異議を突きつけるものになりました。
 
4 レイシズムの複雑さを知ったこと
 ⑴ エリック・クラプトンがこの発言でレイシズムを露わにしたことは、私にとっても、社会にとっても、ショッキングな出来事でした。というのも、クラプトンはアフロ・アメリカンのブルース音楽に強い影響を受けたミュージシャンです。黒人のミュージシャンとの共演経験も数多くあります。ジャマイカのレゲエが世界的にポピュラーになったのも、クラプトンがそれを取り上げて、演奏したことが大きなきっかけです、私自身、クラプトンを通じて、レゲエを知りました。
 しかし、そういうクラプトンがある局面ではレイシズムに直結する発言をしてしまう。これはレイシズムというものの複雑さを知るきっかけになりました。レイシズムというと、アメリカ社会における白人による黒人への人種差別を思い起こすのが一般的でしょうが、レイシズムはそのような単純な構図には限らない。普段は異文化に敬意を示す人間が、ある瞬間にレイシズムを露わにすることもある。しかし、差別される側にとっては、そのレイシズムは過酷なものです。軽率な一言では片付けられません。
 ⑵ 音楽を通じて、私はそうしたレイシズムについての学びを深めてきたと言えます。実はロック・ミュージシャンやジャズ・ミュージシャンには人種差別思想が入り込みやすい、ということにも気づきました。ロックやジャズはアフロ・アメリカンの生み出した音楽を下敷きにしています。それゆえ、黒人特有の感覚を賛美するということになりがちです。しかし、人種的に音楽的能力の優劣を見るような先入観を持つということは、例え、ブラック・ミュージックを賛美する立場であっても、レイシズムになりえます。比較すると、アジア人など他人種は劣っているという論に簡単に転化されますから。
 ⑶ また、レイシズムは「人種差別」には限りません。同じ人種の中でも差別はあります。私はニューヨークやロンドンに長く滞在し、様々な移民のコミュニティーの音楽も取材しました。ミュージシャンの知己も多く得ました。すると、アフロ・アメリカンは同じアフリカンでもアフロ・カリビアンの移民を下に見ている。そのカリブ海からの移民の中でも、旧フランス領であるハイチからの移民は下に見られる。アフリカンの中でも差別はモザイクのように複雑に存在していることが分かっていきます。
 ⑷ もとより、英語の「Race」は「人種」だけを意味しません。「民族」はもとより、遺伝的、身体的な属性や、地理的、言語的、文化的、宗教的、その他の社会的な属性によって、他と隔てられた集団が「Race」です。ゆえに、「人種差別」や「民族差別」だけでなく、「とある属性を共有する集団」や「とある境遇に置かれた人々」への差別も「レイシズム」と考えられます。
 例えば、ツイッターでの不適切発言の報告は大きく三つに分類されますが、その筆頭は「アイデンティティーを理由に攻撃を受けている」です。「人種」も「アイデンティティー」の中に含まれますが、それ以外の「とある属性」や「とある境遇」も含まれます。レイシズムというのは、それらすべてをひっくるめた「アイデンティティーを理由に他者を攻撃する」ものである。そう考えるのが、現代的な認識でしょう。

 5 藤澤裁判長の「レイシズム」観について
 しかしながら、一審判決の藤澤裕介裁判長は「レイシスト」とは「特定の国民ないし民族を差別し、劣等視するような人種差別的思想を有している」人物と考えているようです。これは極めて狭義の、古めかしい解釈であり、私の知る「ロック・アゲインスト・レイシズム」以降の反レイシズム運動とは相容れないものです。イーノック・パウウェルも自身を擁護する上で、自分は人種によって、生来の能力に差があるというような人種差別思想は持っていない、と述べています。しかし、彼の排外主義演説は移民の生活を脅かしました。差別や暴力が路上にも溢れ出す状況に、パウウェルは火を付けたのです。
 多くの差別は、自覚的な差別思想や差別主義を持たない人々によって、行われます。レイシストは「人種差別思想の持ち主」ではなく、「差別を行う人」です。それを行なった瞬間に、普通の人がレイシストに変貌します。
 そして、現代では差別は様々な形を取ります。パウウェルの「血の河演説」も移民政策に対する提言だったとは言えるかもしれません。しかし、「提言」「評論」「批評」「解説」といった形を取る言説の中に、レイシズムあるいはレイシズムの扇動効果が存在するのは珍しいことではありません。
 
6 「評論」「批評」「解説」といった形を取ったレイシズム
 ⑴ 私が過去に「提言」「評論」「批評」「解説」といった形を取る言説の中にもレイシズムあるいはレイシズムの扇動効果が存在することを指摘した例としては、『ディープ・コリア』という出版物に関するものがあります。
 これは、根本敬、湯浅学、船橋英雄の3人が1987年から始めた韓国旅行記で、大きなブームを巻き起こし、2017年頃まで続いたプロジェクトでした。私は湯浅学の古い友人であり、最初の一冊を本人からもらいましたが、その時点でこれは人権侵害本であると判断しました。
 Wikipediaでは同書はこう解説されています。
 「日常のどうでもいい瑣末でリアルな韓国の姿を「お笑い大韓民国」として面白おかしく取り上げたものである。これは対韓国・朝鮮贖罪意識にとらわれた形でしか韓国を語れず、硬直していた日本の韓国観に対し風穴を開ける画期的な一冊として青山正明などから高く評価された」
 ⑵ しかし、韓国で出会った人々を無断で撮影したり、戯画化したりして、面白おかしく語るそれは人権侵害に他ならず、著者達がいくら自分達は韓国を愛している、これは文化批評である、と言ってもエクスキューズにはならない。そして、90年代のサブカルチャー・ブームの中で『ディープ・コリア』が人気を博したことが、21世紀以後の嫌韓、ヘイト・スピーチの引き金ともなったというのが私の見方でした。
 ⑶ 当初は私のような立場を取る人は数少なく、知り合いの音楽評論家や雑誌編集者、知識人も『ディープ・コリア』に賛辞を送っていました。しかし、路上での嫌韓ヘイトが激化した2010年代以降、風向きが変わりました。「文化批評だから差別ではない」「愛があるから差別ではない」というような論調は影を潜めました。2018年にツイッター上で議論が巻き起こり、私はあらためて『ディープ・コリア』の人権侵害・差別的性格について、まとめて書きました。
 2019年には根本敬の熱烈なファンとして知られる香山リカさんが『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』という本を出版しました。
その中で、香山さんは私のツイートを数回、引用した上で、「中には高橋健太郎氏のように鋭い人権感覚を持ち〜気づいていた人もいた」と書いています。
 
7 エンターテイメントという形を取ったレイシズム
 ⑴ 面白おかしく書かれた文化批評の中にもレイシズムがあったり、それがレイシズムの扇動効果を持ったりする。現代にはこのような形のレイシズムの発露が数多くあります。メディアにおいて、それがエンターテイメント化していると言ってもいいでしょう。私はそのことに対してセンシティヴであり、一貫して批判的でした。藤原大輔が本件裁判の当該コンサートをめぐって、私に相談の電話をかけてきたのも、だからだったと思われます。原告の上念司は「経済評論家」の肩書きですが、「文化批評」と同じように「経済評論」もそうした性格を持ち得ます。
  ⑵ 2019年12月11日に、私はこうしたエンターテイメントの中にあるレイシズム、あるいはレイシズムの扇動行為について、まとめてツイートしています。
 「ある意味、「レイシスト」よりもタチが悪い「レイシスト達の扇動者」が大きな顔しているのが、今の日本だろう。posted at 09:56:04」
 「「レイシスト」(と明確に看做せるザコ達) 「レイシスト達の扇動者」(それをビジネスにしている有名人)  後者はレイシストと断定されないように言質には気を配りつつ、「レイシスト達の扇動」効果を狙う。posted at 10:00:58」
 「そうやって「レイシズムに加担する」学者だのコメンテイターだのがいる。彼らに場を与えて「レイシズムに加担する」メディアがある。そういうことでしょ。  posted at 10:05:38」
 「「レイシスト達の扇動者」がしばしば用いるエクスキューズは、自分が語っているのは経済である、政治である、歴史である、批判しているのは韓国という国であって、韓国人ではない、そこに人権侵害はない、というもの。 posted at 10:44:11」
 「しかし、経済や政治や歴史を語っているだけ、韓国という国を語っているだけ、という中に、「レイシスト達を煽動する効果」は意識的に、ふんだんに盛り込まれている。最大の娯楽性はそこにあると言ってもいい。  posted at 10:51:43」
 
8 上念氏について
 上念司に対しては、私は「ニュース女子」、「虎ノ門ニュース」の出演者という印象が最も強いです。この二つは「ニュース」とは冠されていますが、トーク・ヴァラエティー的な性格も強く、とりわけ、前者はそうでした。上念司は2018年4月から 2021年1月5日にかけては、出演者であっただけではなく、その「主催者」だったとされています(出典:ウィキペディア)。
 辛淑玉さんが「ニュース女子」を訴えた裁判は先頃。判決が確定しましたが、その中で「在日朝鮮人である一審原告の出自に着目した誹謗(ひぼう)中傷を招きかねない構成になっている」と、番組自体が差別性を帯びていたことが認められています。
 先の私のツイート群は『ニュース女子』にそのまま当てはまると言って構いません。
 
9 まとめ
 エンターテイメントが差別性を帯びてしまう。レイシズムの扇動効果を生んでしまう。「提言」「評論」「批評」「解説」といった形を取る言説の中にもレイシズムの扇動効果が存在します。また、音楽のような芸術もそこにたやすく利用されることがあります。私達はそのことに注意深くあらねばならない、というのが、音楽の世界で長く仕事をしてきた私のスタンスです。
 友人の藤原大輔が上念司主催の当該コンサートに出演すると伝え聞いた時、私はそれがどのような「集会」と化するか、その中で藤原達が演奏する音楽がどのような「効果」を発揮するか、を危惧しました。そして、最終的な判断はそれぞれが自分ですべきこと、とした上で、私たちの周囲にある諸状況について、話し合いました。その中で、「ロック・アゲインスト・レイシズム」の象徴的な存在だったスペシャルAKAの「レイシスト・フレンド」を話題とするのは、過去数十年の私の人生に照らして当然のことでした。
以上

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