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ひっそりと有終の美を飾ったセルジオ・メンデス&ブラジル’66のラスト・アルバム『Stillness』

 日本ではブラジル音楽の人気が高い。僕のリスニング・ライフでもブラジル音楽はかなりの比率を占めている。いつからブラジル音楽が好きになったのだろう、と振り返ってみると、時は1966年、小学生の時である。「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」が最初の1曲。オリジナルはジョルジュ・ベンだが、日本のラジオでかかりまくっていたのは、セルジオ・メンデス&ブラジル’66の「Mas Que Nada」だった。

 セルジオ・メンデスは1941年にリオデジャネイロで生まれたピアニスト/バンドマスターだが、1964年にアメリカに移住。1966年にブラジル’66を結成し、「Mas Que Nada」をヒットさせて、世界的な人気者になった。ビートルズやバート・バカラックの曲をラテン・ジャズ風味のポップ・チューンに仕上げて大ヒットを連発。アントニオ・カルロス・ジョビン、エドゥ・ロボ、ドリ・カイミといったブラジルのソングライターの曲を積極的に紹介して、独自の地位を築いたのがセルジオ・メンデス&ブラジル’66だった。
 ブラジル’66の結成時にセルジオ・メンデスはブラジルからトップ・ドラマーのジョアン・パルマを呼び寄せた。だが、それ以外のグループの主要なミュージシャンはアメリカ人だった。シンガーのラニ・ホールはシカゴのクラブで歌っていたところをメンデスに見出され、19歳でメンデスとグループを結成することになった。ブラジル’66は二人の女性シンガーをフロントに立て、初期はブラジル人のヴィヴィ・ボーゲル、その後はアメリカ人のジャニス・ハンセンがセカンド・シンガーとして在籍したが、レコーディングではラニ・ホールがほとんどのパートを歌っていたとされる。
 1960年代後半、セルジオ・メンデス&ブラジル’66はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスを凌ぐA&Mレコードの最大のヒット・メイカーとなった。その活動は1971年まで続き、7枚のオリジナル・アルバムを残した。しかし、僕が彼らのアルバムを買い集めるようになったのは、ずっと後のことだ。70年代はロック・アルバムを聴くことに夢中だったから、そこまでは手が回らなかった。中古盤のLPを買うようになったのは80年代以後のこと。数多くのヒット曲を含む、1966年の『Herb Alpert Presents』から1968年の『Look Around』までの4枚はアルバムは市場にも数多くあったから、安価な中古盤を買うことができた。
 だが、ブラジル’66後期の3枚のアルバム『Crystal Illusion』(1969年)、『Ye-Me-Le』(1969年)、『Stillness』(1971年)は買いそびれて、年月が経っていた。これらのアルバムを僕がちゃんと聴いたのは、21世紀になってからである。そして、驚いた。後期のブラジル’66の音楽もこんなに良かったのかと。

 一世を風靡したセルメン・サウンドは1969年の『Crystal Illusion』以後は聴けなくなっていく。最大の変化はコーラス・グループの色が消えていくことだ。ブラジル’66は二人の女性シンガーがいるように見せかけてきたが、実際にはレコーディングではラニ・ホールがヴォーカルを多重録音していた。
 だが、そのラニ・ホールの存在も匿名的なものだった。1968年のアルバム『Fool On The Hill』にはホールが歌っていない曲もある。ポルトガル語で歌われる「Lapinha」でリード・ヴォーカルを取るのはグラシーニア・レポラーセ。セルジオ・メンデスのプロデュースでバート・バカラック&ハル・デヴィッドの名曲「Do You Know The Way To San Jose(サンホセへの道)」をヒットさせた第二のセルメン的なグループ、ボッサ・リオのシンガーだ。グラシーニアはブラジル出身で、後にセルジオ・メンデス&ブラジル’77のリード・シンガーとなり、メンデスと結婚する。


 必要とあらば、リード・シンガーも差し替える。そういうブラジル’66のレコーディング・グループとしての在り方に、ラニ・ホールが不満を抱いていたこことは想像に難くない。彼女は単なるシンガーではなく、ブラジルの作曲家達の曲を英語化する作詩家としてもグループに貢献していた。   
 『Crystal Illusion』ではホールのソロ・ヴォーカルの曲が増え、ヴォーカルをダブルで重ねる手法も使われることも少なくなった。これはキャリアを積み、発言力を増したホールの意思の反映だろう。その背景には、共同プロデューサーとしてアルバム制作に加わったハーブ・アルパートの存在もありそうだ。ホールとアルパートは恋仲になり、後に結婚する。
 このアルバムではホールは2曲をセルジオ・メンデスと共作。さらにミルトン・ナシメントの名曲「Vera Cruz」に英語詩をつけて歌っている。A面の3〜5曲目に置かれたこの3曲はいずれも彼女のソロ・ヴォーカルで、シンガー・ソングライター作品的な色も匂わせている。時は1969年。ジョニ・ミッチェルやジェームズ・テイラーがデビューし、アメリカの音楽界にまさしくシンガー・ソングライターの波がやってきた頃合いだ。

 『Crystal Illusion』はセルジオ・メンデス&ブラジル’66がA&Mスタジオで全編をレコーディングした最初のアルバムでもある。A&Mレコードがロスアンジェルスのサンセットとラ・ブレアの交差点近くに自社スタジオを開設したのは1968年。そのチーフ・エンジニアに迎え入れられたのはラリー・レヴィンだった。レヴィンはゴールドスター・スタジオでフィル・スペクター作品を手掛けたことで名高いが、A&Mとの仕事も数多く、ブラジル’66にもセカンド・アルバムの『Equinox』から関わっている。A&Mスタジオはブラジル’66の『Fool On The Hill』の制作中にオープンし、『Crystal Illusion』から本格稼働した。
 A&Mスタジオは基本的にはA&Mレコードのアーティストに使われたが、同スタジオを好んだ社外のアーティストもいた。その代表がジョニ・ミッチェルだ。ジョニは1969年にセカンド・アルバムの『Clouds』をA&Mスタジオでレコーディングした。エンジニアはラリー・レヴィンの弟子のヘンリー・ルーウィ。ジョニはその後、ルーウィとともにA&Mスタジオで数多くの傑作アルバムを生み出すことになる。

 同じスタジオでレコーディングしているジョニ・ミッチェルの音楽にセルジオ・メンデスも刺激を受けたに違いない。時代は変わり、シンガー・ソングライターの波がやってきていることも感じ取っていただろう。1969年にジミー・ウェッブ、ビートルズ、バカラックなどの曲をカヴァーしたもう一枚のアルバム『Ye-Me-Le』を発表した後、ブラジル’66のアルバム制作は小休止する。そして、1971年になって、ブラジル’66の七枚目のアルバムとして発表されたのが『Stillness』だった。ジョニ・ミッチェルの「Chelsea Morning」のカヴァーを含むこのアルバムは、日本では『チェルシーの朝』という邦題で発売された。

 この『Stillness』はセルジオ・メンデス&ブラジル’66のアルバムとしては例外的に物静かで、暗いトーンを持つ作品だ。セールス的には最も売れなかった。「Mas Que Nada」から5年経ったに過ぎないが、このアルバム中の曲を何も知らずに聴いて、ああ、セルメンだと思う人は少ないだろう。そのくらい遠いところに来てしまったアルバムだったが、これが現代の耳で聴くと、何とも素晴らしいのだ。
 まずは、そのサウンド。1968年の『Look Around』から1969年の『Crystal Illusion』にかけてはデイヴ・グルーシンのゴージャスなオーケストレーションに彩られた曲が多かったが、『Stillness』のサウンドはぐっと音数を削ぎ落とし、透明感の高いものになっている。重要なゲスト・プレイヤーはブラジル人ギタリストのオスカー・カストロ・ネヴェス。冒頭のタイトル曲では彼のギターとトム・スコットのベース・フルート、セルジオ・メンデスのエレクトリック・ピアノだけの幻想的なアンサブルの中に、リナ・ホールが清冽な歌声が立ち上がる。

 1970年にはジョニ・ミッチェルはアルバム『Ladies Of The Cannyon』をA&Mスタジオでレコーディングしている。同年にはカーペンターズが『Close To You』をレコーディング。翌1971年にはキャロル・キングが『Tapestry(つづれおり)』をレコーディング。そんな時期のA&Mスタジオで、ラリー・レヴィン以下のエンジニアが手掛けたのだから高品質なのは当然だが、音楽的にいうと、ジョニが1974年に同スタジオでレコーディングする『Court and Spark』を連想するようなプログレッシヴな響きも、このタイトル曲にはある。
 この「Stillness」という曲はアルバムの最後にもリプライズする。全体として「Stillness(静けさ)」という言葉をモチーフにしたコンセプト・アルバムと考えて良いだろう。タイトル曲と2曲目の「Righteous Life」はともにパウラ・ストーンというソングライターの作品。ストーンについてはよく分からないが、ラニ・ホールの友人ではないかと思われる。3曲目はジョニ・ミッチェルが前年に発表した「Chelsea Morning」のカヴァー。原曲のリズミックなフィーリングを拡大し、ラテン・ジャズ的ヴォーカル・チューンに仕上げているのは流石、セルジオ・メンデスと思わせる。
 ラニ・ホールのヴォーカルを前面に立てて、シンガー・ソングライターの時代に対応した音楽をやるというアルバム・コンセプトは、この3曲目までに分かりやすく示されている。だが、アルバムの最大の驚きはその後に待ち構えている。4曲目では何とセルジオ・メンデスが心優しく、切々としたヴォーカルを聴かせるのだ。ブラジル音楽らしいサウダージ感に溢れたこの「Canção Do Nosso Amor」という曲は、1950年代にメンデスがリオデジャネイロで活動をともにしたギタリスト/ベース奏者のシルベイリーニャ(アディリオ・シルベイラ・デ・アキノ)が書いたものだ。

 シルベイリーニャはサンビスタのイスマエル・シルヴァに学んだソングライターで、1960年代の始めに友人のダルト・メデイロスとともにこの曲を書いた。メデイロスは1980年代にMPBの歌手として成功するが、当時は十代の少年だった。「Canção Do Nosso Amor」はブラジルでは1965年にタンバ・トリオによって録音されているが、決してポピュラーな曲ではなかった。それをセルジオ・メンデスは自ら歌ったのだ。
 古い友人の書いたこの曲をメンデスは心の中に大切なものとして残していた。そして、ブラジル’66でシンガー・ソングライター的な音楽をやるならば、この曲を自分で歌おうと思い立ったのではないだろうか。『Stillness』の最大の聴きものは、このメンデスの歌声だと言っていい。同曲はのちにナナ・カイミほかのMPBのシンガーによってもカヴァーされているが、メンデスのヴァージョンを超えるものはないと断言する。
 メンデスは続けて、ブラジルのシンガー・ソングライターの作品を取り上げていく。5曲目はジルベルト・ジル作の「Vilmundo」。6曲目(LPではB面の1曲目)の「Lost In Paradise」はカエターノ・ヴェローゾの曲。これらはジルとカエターノがブラジルの軍事政権の迫害を逃れ、ロンドンに滞在していた時期の作品だ。ジルの「Vilmundo」はロンドン録音の彼の1967年のデビュー・アルバム『Louvação』にギターとアコーディオンによるシンプルな演奏で収められていたが、ブラジル’66はそれを強靭なサンバのリズムに乗せている。

 「Lost In Paradise」はカエターノの1969年録音のセカンド・アルバム収録の英語詩の曲。当時はまだカエターノもジルもアメリカではまったく無名だった。だが、ブラジルの軍政にプロテストする二人のMPBの新星の曲を取り上げることに、メンデスはこだわったのだろう。と考えると、それに続く曲がバッファロー・スプリングフィールドの「For What It’s Worth」のカヴァーだということの意味も見えてくる。この曲はスティーヴン・スティルスが1966年にLAのサンセット・ストリップで起こった暴動をテーマに書いたものだ。ロック・クラブにたむろする若者に対して、警察が夜間外出の制限措置を取った。それに抗議する集会で若者達と警察隊と衝突したのだ。この3曲の並びは『Stillness』がセルメンらしからぬ、反権力の政治色も帯びたアルバムだったことを物語る。

 ところで、「Lost In Paradise」のリード・ヴォーカルはラニ・ホールではない。これまたグラシーニア・レポラーセが起用されている。彼女が参加しているのはこの1曲だけだが、ジャケットにも7人のメンバーの一人として並んでいる。アルバムの制作中にすでに、ラニ・ホールはハーブ・アルパートのバックアップを受けて、ソロ・シンガーの道に進もうと決めていたに違いない。一方、メンデスは代わって最愛のグラシーニアと次のグループを始めようとしていた。『Stillness』がブラジル’66のラスト・アルバムとなるというのは、レコーディング中から暗黙の了解だったのではないだろうか。
 アルバム中でも最も長尺の「Sometime In Winter」はブラッド・スウェット&ティアーズの1968年のセカンド・アルバムに収録されていた曲のカヴァーだが、そこではセルジオ・メンデスとラニ・ホールが交互にリード・ヴォーカルを取る。セルメンらしからぬ冬の歌。そして、去ってしまった恋人との日々をある種の諦観とともに追憶する歌だ。『Stillness』で起用されたオーケストラ・アレンジャーのディック・ハザードの繊細なオーケストレーションの中で、メンデスもホールもこれが最後だと知りながら、この曲を歌った。そういうドラマが見えてくるように思う。

 こんな有終の美を飾ったセルジオ・メンデス&ブラジル’66のアルバムがあるとは知らなかった人も多いかもしれない。しかし、今からでも遅くない。このアルバムの陰影に富んだ魅力はむしろ、現代でこそ理解されるものではないだろうか。

 幸いなことに『Stillness』の入手はさほど難しくない。CDでは何度も再発されているし、1990年代には日本のレキシントン・レコードがLPを再発している。人気盤ではないから、CDもLPも価格も高騰はしていない。
 できれば、この時期のA&Mスタジオの音だから、ハイレゾで聴いてみたいところでもある。残念ながら、ブラジル’66のアルバムはまだ一枚もハイレゾにはなっていないが、A&Mレコードの60年代音源のハイレゾ化はそこそこ進んでいるので、物理的な問題はないはずだ。どこかで全タイトルのハイレゾ・リリースがあるのではないかとは期待している。

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