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ボビー・チャールズは「アカディアの流木(Acadian Driftwood)」だった

有楽町でボビー・チャールズの映画『In a Good Place Now: The Life & Music of Bobby Charles』を観てきた。ルイジアナ出身のボビー・チャールズは十代の頃から敬愛するアーティスト。1972年のベアズヴィル盤のアルバムはどれほど聴いたか分からない。ベアズヴィル・スタジオで作られたアルバムの中ではボニー・レイットの『Give It Up』と双璧である。

だから、もちろん泣ける映画だった。ボビー・チャールズは50年代に「See You Later Alligator」というロックンロール・ヒットを放ったものの、人前に出ることを嫌い、世捨て人的な生活を送っていたこともあって、知る人ぞ知るソングライター、ミュージシャンズ・ミュージシャン的な存在だった。ザ・バンドをはじめ、多くの有名ミュージシャンとの交友はあったものの、アルバムの数も多くないし、ましてや彼のことを深く掘り下げた本とか映画とかは過去になかった。

ただ、全編を見ても、発見はあまりなかった。というより、一本の映画にするには明らかにネタ不足。なにしろ、本人の実演シーンがまったくない。断片的なインタヴューしかないのだ。『ラスト・ワルツ』の出演時の映像が蔵出しされるかと思ったが、それもなし。ボビー・チャールズがマイクに向かって、歌う姿はまったく見ることができない。

証言者は多数。しかし、ビッグネームはドクター・ジョンとアラン・トゥーサンくらいだ。世捨て人なソングライターの人生が浮き彫りにはなるが、音楽面の検証は物足りない。Godfather Of Swamp Popと呼ばれた同郷の旧友、ウォーレン・ストーム(2021年に死去)にガキの頃の経験などをもっと語ってもらったら良かったのに。

映画の後半では同じような賞賛が繰り返されるようになり、果てはザ・バンドの元ツアマネが今のアメリカ音楽は生演奏をしてない。あんなのはニセモノだ、マドンナとかブリトニーとか、などと語り出す始末。今は何年だよ?とどっちらけになった。

実はボビー・チャールズの曲は近年、アメリカーナ系のミュージシャンによって、たくさんカヴァーされている。「Must Be In a Good Place Now」だけで、YouTube上に幾つあるか分からない。パンチ・ブラザーズなどもやっているし、若いインディー・ミュージシャンによるカヴァーも多い。ジジイ達の昔話ばかりじゃなく、新しい世代による再評価の声も拾えば良かったのにね。

映画でしか聴けない未発表音源は1曲だけ。ナッシュヴィル録音と思われるニール・ヤングとのデュエットだ(YouTubeには以前から流出していた)。しかし、ニール・ヤングには取材できていない。ロビー・ロバートソンにも断らたんだろうなあ、でも、ガース・ハドソンは受けてくれたのでは?などと思ってしまった。

ミュージシャンが思うように取材出来なかったなら、出身地のルイジアナ州アビヴィルを取材すれば良かったのに。ラファイエット市に近いアビヴィルはフランスにもある街の名で、住民もほとんどがフランス系。ケイジャン(アカディアン )である。ボビー・チャールズの曲にも確実にケイジャン〜フレンチ的な要素はあり、だからこそ、ガースの鍵盤と相性が良かった。そのへんまったく触れられず、アメリカ音楽という大枠の話ばかり。なんだかなあ、と思って、帰ってきた。

しかし、映画のおかげで、自分でもこれまで掘り下げていなかったところに興味が湧いた。ボビー・チャールズのフレンチ・ルーツについてだ。ボビーの本名はロバート・チャールズ・ギドリー(Robert Charles Guidly)。このGuidly姓について調べてみると、ルイジアナに集中しているファミリーネームである。さらに、ルイジアナにはGuedry姓も多い。このふたつはもともと同じで、フランスのGuédry姓が英語化したものだった。つまり、ボビー・チャールズは明らかにフランス系だったのだ。

ルイジアナのGuidly〜Guedryの祖先はほぼ特定されている。1671年前後にフランスから現在のカナダの大西洋沿岸、フランス領のアカディアに移民したクロード・ゲドリー・ディ・グリヴォワ(Claude Guédry dit Grivois)が、カナダやルイジアナのギドリー姓の人々の祖先とされている。クロード・ゲドリー・ディ・グリヴォワはアカディアでミクマク族の娘、マルグリット・プティパと結婚し、10人の子供をもうけた。ということは、カナダやルイジアナのギドリー姓はネイティヴ・インディアンの血も引いている。

1755年に始まるイギリス軍によるアカディアンの追放劇によって、アカディアンは家を焼かれ、船に乗せられた。そして、各地を流浪した後にルイジアナに辿り着き、ケイジャンとなった。ザ・バンドの「Acadian Driftwood」に歌われたストーリーだが、ボビー・チャールズはまさしくアカディアを追われたケイジャンの末裔であり、加えて、ロビー・ロバートソンと同じくネイティヴ・インディアンの血も引いていたのだ。どうして、映画はそこに触れなかったのか?

アビヴィルという土地にはもうひとつ、僕の興味を強く惹くことがある。アビヴィルの観光旅行は近隣のタバスコ工場の見学がセットになっていることが多い。タバスコの発祥地はアビヴィルから30kmほどのエイヴリー・アイランド。創始者はイギリス系の農園主だったエドマンド・エイヴリー・マキルヘニー。その2代目のエドワード・マキルヘニーはアラン・ロマックスにも影響を与えたフォークロリストだった。彼はエイヴリー・アイランドの教会で奴隷解放以前に歌われていた黒人霊歌を100曲以上も採譜。協力したアルベルタ・ブラッドフォードとベッキー・エルジーは1934年にアラン・ロマックスが採集録音を残している。

二人は当時、70代と80代だったが、その歌唱は驚くべきものだった。20世紀の前半に聴かれたスピリチュアルとはまったく違う、むしろ二十世紀後半のゴスペルに近いブルージーな節回しが1934年に二人の老女によって歌われている。それが奴隷解放以前にエイブリー・アイランドに存在していたスタイルだとしたら、アメリカで最初にブルーズ的なハーモニーが生まれたのはエイブリー・アイランドだったのではないかと思えてくる。マキルヘニーは子供時代(1850年前後)に見た教会の光景を書き残しているが、個人個人が即興的に歌を発展させていくというその記述も、ブルーズやジャズの原点を感じさせて、極めて興味深い。

マキルヘニーの採譜した奴隷解放以前のスピリチュアルの中には、12小節3行詩的な構成のものもある。フランス系の住民が周囲に多いことから、フランスのフォーク・ソング由来のその形式が、この地域では黒人霊歌の中にも取り入れられたのではないかと僕は考えている。端的にいえば、ブルーズ〜ロックンロールを生み出すことになる最初のミクスチャーは、ルイジアナのこの地域で起こったのではないか。これは僕がレコード・コレクターズの連載の中で、詳細に論じたことだった。

ボビー・チャールズはまさにその地域の出身者だった。ケイジャンであり、ネイティヴ・インディアンの血も引いていた。50年間、彼のアルバムを聴き続けていたのに、そこまでは気づかなかった。

思えば、ボビー・チャールズはこんなフランス語のシャンソンを歌ったこともあった。ケイジャンの家庭に育ったボビー・チャールズは実はフランス語はお手の物だったはずだ。

「ボビーはフランス語を話す両親とともにケイジャン・ラジオを聴いて育った」と書かれたバイオグラフィーもある。
しかし、ロックンロールやR&Bに惹かれた彼にとって、フレンチ・ルーツは忌避すべきものだったのかもしれない。一緒にニューオルリンズのクラブまでR&Bのライヴを観に行っていたウォーレン・ストームはドイツ系だった。二人でブラック・ミュージックに熱中した。
とはいえ、ほとんど楽器を演奏せず、譜面も読めなかったというボビー・チャールズが数多くのスウィートな曲を生み出すことができたのは、記憶の中にたくさんの音楽があったからだろう。その中にはケイジャン音楽も、ルイジアナ到達以前のアカディアンのフォーク・ミュージックもあったに違いない。
映画にフラストレーションを感じたおかげで、こんなことを考えるに至ったのだから、これはこれで良かったのかもしれない。


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