濱口竜介「悪は存在しない」の感想
昨日公開された濱口竜介監督の最新作「悪は存在しない」をル・シネマ渋谷宮下で観た。
さまよい歩く少女・花の視点を石橋英子による印象的なサウンドとともに森を見上げるロングショットでとらえる極めて印象的な冒頭から、父・巧に抱きかかえられた花の暗い視界へと還っていきそう長くはないうちにその命とともにこと切れるラストに至るこの映画には「悪は存在しない」なるタイトルが付与されているのであってみれば、では何であれば存在すると主張されているのか。さしあたっては、それを「構造」と呼んでおこう。
中盤の始まりとなる「説明会」でのやりとりが人物や場面設定を明らかにすることで、序盤全体に満ちていた不確かさによる宙吊りから解放され、ひとまずは安心して「悪」であり得る存在たちの滑稽さを眺めることになる。芸能事務所の二人がまた森を訪れると、薪割りをする巧の姿が再び捉えられることで終盤の始まりが告げられ、序盤が繰り返されることになる。しかし、そこでのドリーショットは序盤のようなアクションに満ちたものとはならないし、ひとりでさまよう花はウコギで怪我をしてしまう。
説明会やその後の再訪においては芸能事務所の二人の立場をまるで受け入れないではなかった、それどころか譲歩しさえしていた巧は、原っぱに見出された手負いの鹿=花を守るために、彼を殺害する。終盤における序盤の反復から少しずつズレていく差異が、偽の構造(都市と田舎でも、それこそ善と悪でも)にとらわれた彼らには絶対的に理解の及ばない真の構造=「悪は存在しない」=バランスに巧が殉じることで、先述した通り冒頭へと還り不意に絶たれることへと極大化したところで映画はひとまず終結し、構造が回復する。
確かに見事な映画である。先に少し触れた序盤における「アクション」には手を叩きたくなるような見事さがあったし、鳥が飛び去ったあと下方にパンして花をとらえるショットの美しさには涙が溢れた。中盤のGoogle Meetをなかだちにした、すくなくとも4台以上のキャメラからなる複雑なシークエンスは、当世流のスプリット・スクリーンの試みとして不思議な印象を残した。もちろん、最終的に構造に殉じるのだろうスケールの大きさを最初からみなぎらせていた主演の大美賀均は、文句なく素晴らしい。
そうした美点に満ちてなお、やはりちょっとあまりにも収まりすぎているようにも思える。そのことについてどう評価するかは、自分の中でもまだ定まってはいない。一方で、映画の提示する構造=バランスとは、なにか落ち着いた状態であるというよりもむしろ、ひとつ間違えば転落してしまいかねない緊張に満ちた、すなわちサスペンスなのではなかったか。その意味においても、全編がサスペンスに満ちているばかりか巨大な余韻=サスペンスを残しさえするこの映画は、構造をそのまま体現している。それもまた、あまりにも収まりすぎているだろうか。