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2019年の現代アートを回顧する――世界のアートはグローバルからローカルへと旋回した!(5)

_2.「Spectrosynthesis Ⅱ」@BACC(Bangkok)

LGBTQは、セクシュアリティのシンボルのレインボーにしてローカルの華である。

どちらもひどく暑い(温暖化の影響であれ暑さは現実を幻想にする)シンガポールからバンコクに来ると、バンコクの中心街にあるBankok Art and Culture Centre(BACC)で、「Spectrosynthesis Ⅱ」(57、漢字で「光合作用」と綴られるタイトルの展覧会。そのⅠは台北MOCAで開催された)が開催されていた。

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LGBTQに代表されるセクシュアリティは、太陽光がプリズムで分離してスペクトルのレインボーになるように分割(多様性)されるけれども、その境界は連続して移行している。Maitree Siriboonの展示作品(58)のように。

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LGBTQは、垂直ではなく水平的なつながり(連帯)を重視する。レインボーのように連続することが愛であり、それがコレクティブ(あるいはマルチチュード)をなす。
タイトルから導かれる本展のLGBTQの理念は、レインボー(七色)のスペクトル(Spectre)は総合(Synthesis)されるというものだ。私は、これをエロスと呼びたい。エロスは性的に狭い意味で用いられることが多いが、もっと広く生にまつわる欲望である。それは共生を促す。多様なセクシュアリティ(それに対応した多様なジェンダー)の肯定、つまり生が肯定されるには、LGBTQがストレートに現れる作品が必要だ。厳しい抑圧に抵抗するインドネシアのYoppy Pieterのスケスケの美しい写真(59)のように。

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以上から、「Spectrosynthesis Ⅱ」は「愛」をテーマにした展覧会であることが理解される。Sudaporn Tejaのドキュメンタリー・ヴィデオ「Loves Get Better with Time Quietly 」(60)に登場する人物が、「愛はジェンダーとは関係ない。愛は愛」と語った言葉が、いつまでも私の脳裏に響いていた。

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6_3.Asian Art Biennale@National Taiwan Museum(@Taichun)

バンコクを発ち東南アジアを後にして、帰途立ち寄ったのは台湾だった。その中部に位置する都市、台中にあるのが国立台湾美術館である。そこでは、アジア・アート・ビエンナーレと台湾ビエンナーレ(台湾のアーティストが参加するビエンナーレ)が、交互に開催されている。台中は、毎年どちらかのビエンナーレが行われる現代アートのメッカなのである。
2019年は、前者が開かれていた。その会場の国立台湾美術館の入口のロビーに飾られた今ビエンナーレの道標となる作品が、物質性(人工的なものも加味されている)を強調していた。台湾のWang Si-Shunの作品(61)である。

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シンガポール・ビエンナーレがヒューマン、シンガポールのNTUのCCAで行われていた「The Posthuman City」がポストヒューマン、台中のこの看板作品はヒューマン以前の地質時代を想起させるので、アジア・アート・ビエンナーレの方向(Direction)は、思弁的実在論あるいはプレヒューマンを前提とする言えばよいか。

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上記の企画趣旨(62)を読めば、シンガポール・ビエンナーレとは違い、テーマが明確である(シンガポールのほうも、テーマらしきものがない訳ではない。ヒューマニズムに帰着するかどうかははっきりしないが、ヒューマン(Right Directionで暗示される)が、ガイドラインになっている。だが、ヒューマンは常識的すぎてテーマとして弱い)。
展覧会のタイトルは、「The Strangers from beyond the Mountain and the Sea」(本文冒頭の写真参照)。その起点に、折口信夫の「マレビト」(稀人、客人)がある。外部からやってきてギフト(贈物と毒の両義性)を内部にもたらす者のことだ。
二人のキュレーター(Hsu Chia-WeiとHo Tzu-Nyen、ともにアーティスト)は、その「マレビト」を拡大解釈して、現代の様々な「他者」に適用する。このような薄まった意味での他者は、折口の他界から訪れるマレビト(神)から遠ざかる。しかも大移動時代の現代では、他者は見知らぬ者(ストレンジャー)ですらない。誰も気にしない見慣れたものに成り下がった。シンガポールの移民や観光客を見よ! 
というわけで、他者は交通のグローバル化による移動の時代に遍在化して不在になった。逆に言えば隣人は、みな多かれ少なかれ見慣れた他者なのだ。未知な部分はあるが、気にしても仕方ないし、グローバル化された世界では自己と大差ない。グローバル資本主義では、万人が商品化される運命にあることは避けがたいのだ。
ヴェネツィア・ビエンナーレの日本パビリオンで指摘したように、内側に閉じこもる日本人は、他者がいないので爆発寸前になっているのではないか。純粋化つまり均質化と画一化は暴発の引き金である。境界がない同質の世界にフラストレーションを溜め込む人間がいる。近親憎悪は、この閉塞状況で、近隣に無理やり差異を見出し他者を名指すことで、自らのアイデンティティを捏造する。
それゆえ、この時代に「他者」をテーマに展覧会をすることは、実は難しい。それに挑戦した台湾とシンガポールの二人の才能豊かなアーティストは野心的だった。その証拠に、彼らの作った興味深いダイヤグラム(63)を参照されたい。

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ここには、従来の他者論(中心/周縁、内部/外部)には現れないタームがある。高低の垂直軸に配置された二つの見慣れない固有名、「Zomia」と「Sulu Sea」である。その両方が東南アジアに存在していることに注目してほしい。
この二つの地域が、彼らの言う「他者」の輩出、出没箇所である。つまり、現代の真性の「他者」は、このような特殊な地域(中心/周縁、内部/外部の単純な構図ではなく)からしか到来しない。
だが、キュレーターはこのダイヤグラムの中心に主体=空虚を置く。そうなれば、空虚な主体は実体がないので、周囲の要素と関係を結ばざるを得なくなる。結果、主体はストレンジャーに乗っ取られて、その専制(日本のように)に陥る危険がある。それは、他者が再び「マレビト」(神)となり、その支配下に主体が拘束されることを意味しないか? そうならないために、抵抗の拠点となる充実した現代のローカル(モダンや伝統ではない)が必要なのである。
到来する他者(だがもはや「神」ではない)を残しつつ、コミュニティを形成する主体が他者とハイブリッド化し、空虚を生み出す内部/外部図式を取り払うこと。そうなれば、すべてが内部や外部なく、人間や非人間に関係なく、個体間の分子的結合になるのではないだろうか。

本稿では「Sulu Sea」ではなく「Zomia」(64、地図の赤い部分)を取り上げる。

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インドシナ半島のこの地域周辺は、メコン川流域に当たる。メコン川が横切る国家は、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー。これらの国出身の4人の参加アーティストは、今ビエンナーレ会場の一ヶ所に集まっていた。
だが「Zomia」は、国家の外あるいはその間の高地にある。これを説明するために、作品の補足となる資料とテキストが脚注として、特別の展示室を与えられるユニークな形式のビエンナーレ(上の写真がその例。資料は「Zomia」だけではない)だった。
さて出展アーティストは、「Zomia」の一部、ラオス、タイ、ミャンマーの3国の国境が交わる無法な「黄金の三角地帯」で製造される麻薬の問題を扱った一人と一組、一人はミャンマー(黄金の三角地帯シャン州)生まれのSawangwongse Yawnghwe。彼は、オピウムをめぐる裏世界の相関図(65)とオピウムに関する「脚注絵画」(66)を展示。

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一組は、タイのjiandyin。オピウムと「Zomia」で産出される翡翠(オピウムと同じ色で化学成分が異なる粉末、67)に焦点を当てる。人造翡翠のボールがぐるぐると回る水盤の作品(68)が目を惹く。液体は、麻薬中毒者の尿(この尿から麻薬が再抽出される)だそうだ。

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タイのKorakrit Arunanondchai & Alex Gvojic(with boychild)は、3チャンネル・3スクリーン(左はアーティストの祖父の死、右は彼の盟友のダンサー、boychildの鬼気迫るパフォーマンス)の作品(69)の中央のスクリーンに、ミャンマーとラオスの国境に接するタイの県(まさに「黄金の三角地帯」がある)にある洞窟で遭難した少年たちのエピソードを映し出す。

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4人目の作品は、東南アジアの高地地帯(ラオス)、まさに「Zomia」に住む少数民族出身のアーティスト、Techeu Siongの描く民族の守護神(70)。

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さて中国人アーティスト、Liu Chuangは、東南アジアを出自としないが、メコン川流域を題材とした映像作品で、「Zomia」に沿って流れるメコン川の電源開発のローカルなリアリティと仮想通貨が流通するグローバルなヴァーチュアル・リアリティを結びつける(70)。ローカルをグローバルに接合するエンディングの女性の変身シーン(71~73)が、主体と他者のハイブリッドの見事な実例となって圧巻だった。

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最後に、「Zomia」とその周辺について簡単にまとめておこう。
それは、超国家的条件が幾重にも重なっている地帯である。
1.地形的には高地(国家権力(軍隊)の介入が困難)
2.多・少数民族の居住地域
3.麻薬密造
4.グローバル資本主義の進出・開発(ダム)
5.グローバルなヴァーチュアル・リアリティ(仮想通貨のマイニング)
そこから導かれる結論は、
「Zomia」は、最後の他者がやってくる地帯か?
「Zomia」は、国家の論理には反する(アナーキー)が、資本の論理には反しない(究極の市場第一主義?)。
現代アートにとってもっとも重要なのは、「Zomia」の外側にいる東南アジアのアーティストは、彼らが作品の題材にする場所が「Zomia」から離れているにせよ、それを背景にして、そこから吹き込むアナーキーな風を表現に孕みつつ、そのエネルギーに変換しているのではないか?

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