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ポストモダン終焉宣言、第4弾!(アフターコロナのアート)

Wade Guytonの創作について付け加えておくと、彼が主題とする〈差異〉はあらゆる現象の背後にあるので、その戯れが起きるのは表層ではない。
ポストモダンの終焉は、この不可視な〈差異〉の現実化であると述べた。それは、シミュラークルの純化が最高点に到達することと等値にして同時である。シミュラークルこそが〈差異〉の戯れの現場であり、〈差異〉が表層ではなく深層から浮かび上がる震央である。シミュラークルは、その浮揚力によって軽やかに舞う。しかし〈差異〉は、深層にあることで、その底に存在を蔵している。〈差異〉はカオスに接続しているのだ。だが、そのカオスに回帰することはできない。
できることといえば、Guytonのようにアシンメトリックな関係をシンメトリーに装う(あるいはその反対)程度である。それだけでも十分に凄い。Guytonの卓越性は、そこにある。リヒターが全作品を通じて純粋シミュラークルを暗示したのに匹敵する大発明なのだ。
さて、ポストモダンの現在形の現代アートが行き詰まっているとしよう。
実際私は、70年代末のモダンアートと同じ閉塞状況にあると思うのだが、マーケットがあまりに活況を呈しているので、そのなかにいる人間は気づかす、まったく危機感を持たないかもしれない。
だが、すでにポストモダンの表現の資源は枯渇している。その使い回しを、ほぼ20年間続けていると、さすがにマーケットもおかしいと疑うのではないか? 少なくとも変わり映えのしない繰り返しに食傷してはいないか?
その徴候は、ここ5年ほどで急速に感じられるようになった。さすがにマンネリの倦怠感が、売れる作品で好景気を維持するアートフェアにも漂い始めたのである。
では、現代アートは次のステージを提供できるのか? 私はGuytonの作品に、ポストモダンの原理の一つである〈差異〉を視覚化するという力業を垣間見た。
時代の表現の自覚化(古典絵画におけるレンブラントの自画像の役割がそれである)が、当の時代の終焉を実質的に告知するとして、次のステージで何が待ち受けているのか?
シミュラークルのズレ=差異自体をテーマにした表現を、Guytonが一貫して追求している。従って、〈差異〉を乗り越えるとは、そのズレを極限的に0か極大化することに行き着く。そこで微分値が生成される。この傾きが〈意味〉となる。
シミュラークルの〈差異〉の先には〈意味〉があるのだ。しかし、それは単なる意味の意味ではない。意味とは対極にあるイメージとなった実在である。このイメージの実在にもっとも強度がある。
従って、その実在が究極の〈意味〉である。
では、アートは〈意味〉をどのように暴露するのか? そのやり方は種々あるが、それを実現することが、現在もっとも要請される創造活動ではないだろうか。
想い出そう。ジェフ・クーンズやピーター・ハリーが、デュシャンを先駆者に仕立ててポストモダンでやったことを。そのようにして誰かがやるはずである。今度の先駆者はリヒターである。
写真は、レンブラント、リヒター、ガイトン。是非、比較を。

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