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2019年の現代アートを回顧する――世界のアートはグローバルからローカルへと旋回した!(1)

現代アートの流れは、グローバルからローカルに遷移しつつある。
ポストモダンのアートは、資本主義のグローバル化に歩調を合わせてグローバル化(その主要な特徴は、フェティッシュとスペクタクルである)した。それに対抗して、アンチ・グローバルやオルター・グローバルが生まれた。
しかし現在出現しているのは、ただのローカルである。しかし、ローカルという言葉から予想される、土着や伝統に回帰するリテラルなローカルではない。ましてやナショナルに回収される運動ではない。
それは、現代のローカルである。また、伝統、モダン、グローバルの断片を寄せ集めてはいるが、それらの引用で成立する表層のポストモダンではない。ワン・ビン(王兵)のドキュメンタリーに登場する人物(1)のような、ローカルの充実せるボディを持ったオルター・ローカルである。

1.今、暴君はどこに?

2019年のアートのメインイベントは、何と言ってもヴェネツィア・ビエンナーレ(2)だっただろう。

ところで現代の暴君は、(歴史を遡れば古代ローマのネロのような)独裁者か専制君主だろうか?

ヴェネツィア・ビエンナーレの企画部門に出展されたこの奇怪なマシーン(by Sun Yuan and Pen Yu、3)をメタファと捉えれば、現代の暴君は強権政治、全体主義、ポピュリズムの国家権力か? イスラム過激派のテロリストか? グローバル資本主義か? 機械を文字通りに受け取ればテクノロジーを駆使した人間を排除する機械文明か? それとも、あいかわず日本のような旧態依然とした冷酷な官僚主義か?
では、それと闘うにはどうすればよいか?
それらと闘うには、作品の背景にあるコミュニティに目を向けなければならないだろう。

「平和の少女像」を守るソウル市民の姿(4)
市民(若者)のコレクティブによるひたむきな努力があるので、アートは守られる。
かたや名古屋(あいちトリエンナーレ)は、それが弱かった。アートの背景となり、その土台にして土壌(=栄養分)となるコミュニティの重要性を、ここで指摘しておきたい。それは、結果として作品の内容面と形式面に強度をもたらすのだ。

かつて暴君(自ら手を下した犠牲者の血を掃除する狂える処刑人)が社会を支配していた。そして、おそらく現在も。
だが、作品(3)に秘められた暴君たる国家への呪詛は見逃されることはない。
現在、国家と国民が分離・断絶し、国家から離脱しようとする国民、あるいは国家に見捨てられる国民(その象徴がツーリストや移民・難民)を、国家は(奨励する場合もあるが)、必死で引き留める(弾圧)か、無力に放置している。国家に対する香港市民の反発や、ヨーロッパに押し寄せた大量の難民を見よ!
あいトリの検閲・中止問題は、この観点から見ることはできないか? 展示の中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」展(5)は、国民国家の解体の過程として、国民の側の国家への抗議・反乱(その反動は予測できないにせよ)ではないのか? 

日本に暴君(強権政治、ナショナリズム、資本主義、テロリズム、テクノロジー)はいるのだろうか? ソウルの日本大使館前に座る「平和の少女像」(4)は、その暴君に何を訴えているのか? アートを守るのは、制度でも警察でもない。アートの土台(容器、腐葉土)であるコミュニティである。そのためには、コミュニティはコレクティブであること。韓国と比べて日本は、アートを育てるコミュニティがないか弱い。それゆえ、日本はアートすなわち自由な表現を守れなかったのである。

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