ポストモダン終焉宣言、第10弾!(念を押しましょう)

ポストモダンの始まりは、モダンの行き詰まりへの窮余の策だった。つまり、もはや新しいものはない。だからオリジナルはない。よって模倣もない。結果、作品はシミュラークル(モデルなきコピー)になる。
この三段論法の大前提を失うと、何でもありの多様性であるとポストモダンに言い渡され、嬉々として伝統に舞い戻るわ、プレモダンからモダンまで何でも模倣するわ、猿真似なのにオリジナルと思い込むわ、とハチャメチャな事態(ポストモダンの行き詰まり?)に逢着する。
だが、ポストモダンにシミュラークルの条件があると知れば、自ずとポストモダンの道筋が浮かぶはずだ。しかも、シミュラークルのコピペのネタが底を尽けば、ポストモダンも終焉することを悟るはずである。
終わったのはモダンの進歩主義の歴史だった。それが終わったのは1980年代のポストモダンにおいてだったが、ポストモダンの歴史の方はあったのだ。アートの歴史は終わってなかったのである。
ポストモダンで歴史が終わったと勘違いした早とちり人間は、歴史の終焉は無制限に無差別な表現を許すと信じた。モダンの歴史が終わったにすぎないのに、歴史自体が終焉したと取り違え、ポストモダンは(方法と様式と素材を問わず)何でもよいと見なしたのだ。
だがポストモダンは、モダンのポストなので、その制約を受ける。冒頭のモダンへの反動が、ポストモダンの作品に深く刻まれた。
その厳格な制約を忘却すれば、どうしようもなくグチャグチャな表現になるか、吐き気のするゾンビ的なステレオタイプになるか、どうにかこうにかパスティッシュな作品で取り繕い、その場をつなぐしかなくなる。
何を誤魔化し取り繕うというのか?
ポストモダンの終焉と、それが放置されて朽ち果てた無惨な姿である。よって写真はありません。

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