ポストモダン終焉宣言(の余白に)

軽いポストモダンのテクニック、コピペ(引用)とリミックス(組み合わせ)。コピペは消尽されたが、リミックスは隅に残っていたのか?
理論的には両方ともお払い箱だが、理論が去った後にハイエナのようにどこからともなく現れる掃除屋がいる。彼らは、資源を供給するアーカイブが空になって途方に暮れたリミックスを、差異の鉄則通り極大、極小化することで無限の差異を二乗し、サバイバルする余地を与えた。彼らの手にかかれば、同一でさえ差異である(それは間違いではない)。
これでは、リミックスの無間スパイラルではないか(またもや終わる歴史が終わらない)! アーティストは、自分の行為を永遠のゼロ(同一物のリミックス)と嘯くのか? これは、中毒者か無一文の人間の開き直りのアクロバット芸である。それほど彼らは自分の無に絶望している。自覚しなくても(笑うところではない)。
だが、自分に何もないことを見せつけるという意味では、自分のちっぽけな知的財産を守ることに汲々としている専門家(そこにアカデミズムも含まれる)より、まだ清々しいのかもしれない。

モダンアートの実際は、再現(プレモダン)と非再現(モダン)の折衷だった(ジャッドでも、ミニマルな理念形の再現と非再現の物質とのハイブリッドだった、写真1)。その表現が次第に後者に純化されて、モダンアートのピークの純粋物質に達した。
すると、ピークを打つことで目標を失い衰退したモダンは、ほどなくして行き詰まった物質アートと入れ替わるようにして、モダンからすれば反動(過去に回帰するなんてもってのほか)と目されるポストモダンに、歴史の席を譲った。
モダンアートとパラレルにポストモダンアートも、非再現(モダン)とシミュラークル(ポストモダン)の混合である(リヒターを例に、写真2)。そしてある時、モダンアートと同様のプロセスで、ピークとなる純粋シミュラークルが花開いた。そしてしばらくすると、行き詰まったシミュラークルアートと入れ替わり、次の時代に移行する。この二つの時代をつなぐ媒介的要素のキーワードは、感覚(ただし物質的支持のない)ではないか(たとえば、Dineo SeShee Bopapeのインスタレーション、写真3)?
その次の時代(現在)に、どのようなアートが現れるのか?

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2000年代、バブル崩壊直前のポストモダンの極限で、純粋シミュラークル(現実=イメージ)による解放を夢見た。そしてその実現が、ポストモダンからの出口を刻印するはずだった。だがそれは、あまりに早すぎた春の到来だった。
2010年代は、突如カタストロフに襲われ、長く暗いトンネルに入り込んだ。
その総仕上げのような2020年の新型コロナウィルス危機のさなかで、私がポストモダン終焉宣言を持ち出すまでもなく、その自壊が始まっている。

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