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【34冊目】職業としての政治マックス・ウェーバー著脇圭平訳

【諸々】

・職業としての学問を読んだらもちろん次はこっちも。

・3日間毎日、1日1冊読んだ!

【気になったところ抜粋&感想("→"以降)】

①P92 ドイツ将校が出撃のたびに兵士たちに向かって、さあこれが最後の攻撃だ、これで勝利が訪れ、ついで平和が来ると言ったのと似ている。心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙論的な倫理的「合理主義者」である。諸君の中でドストエフスキーをご存じの方なら、この問題が的確に展開されている例の大審問官の場面[「カラマーゾフの兄弟」]を覚えておられるだろう。心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。

→戦争の掛け声はいつも、それが最後の手段であるとの掛け声をもたらすが、決してそれは最後ではないことを教えてくれる。また、ドストエフスキーのような作品を読むことで心的理解を比較的容易に体験できるとの示唆もある。読んでみたい。

②地上のどの宗教の発展も、その逆が真実であるという事実の上に基づいている。全能であると同時に慈悲深いと考えられる力が、どうしてこのような不当な苦難、罰せられざる不正、救いようのない愚鈍に満ちた非合理なこの世を創り得たのか。この疑問こそは神疑論の最も古い問題である。この力には全能と慈悲のどちらかが欠けているか、それとも人生を支配するのはこれとは全然別の平衡の原理と応報の原理-そのあるものは形而上学的に解釈でき、あるものは永遠に解釈できない-なのか。この問題、つまり、この世の非合理性の経験が、すべての宗教発展の原動力であった。

→宗教発展の原動力は救いにあるのかと思ったが、それだけではないことをこの文章は理解させてくれる。世の中には二面性があり、それを受け入れられないことや理解できないことがある。そのようなとき、救い、助け、癒しなどと表現される体験が宗教にはあるのだろうと想像される。因みにだが、お寺の二面性はあきれるほど凄いものがあってよく批判されるが(笑)、その二面性を持っているということが救いの本質をもたらしているのではと考えている。

③ルッターは、個人を戦争に対する倫理的責任から解放してその責任を国家に負わせ、信仰以外の問題で国家に服従することは決して罪にはならぬと説いた。カルヴィニズムになると再び信仰用語の手段としての暴力、従って宗教戦争が原理的に認められてきたが、この宗教戦争は、イスラームでは最初から本質的な要素であった。-このように政治倫理の問題を提起したのは、何もルネッサンスの英雄崇拝から生まれた近代の無神論が最初ではない。その結果はまちまちであったが、すべての宗教がこの問題と格闘してきたし、それはこれまで述べてきたところからも当然のことだった人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段がにぎられているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。

→政治と宗教の問題を論じている。ルッターの時代とウェーバーの時代、そして現代ではまたその進歩度合いが異なるが、政治を立てれば国家が立たぬ、という問題をどの程度の比率にするかという話である。しかし皮肉なことに、その軍事技術の高度化に伴って戦争の比率は下がっている。

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