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教会の本質をもう一度考えてみる

どんなことにも言えることですが、シンプルにするために必要なのは、フォーカスを定めることです。教会には様々な役割や働きがありますから、フォーカスがブレてしまいがちなのです。

また、「どこにフォーカスを当てるか」ということも大切なポイントです。フォーカスが間違えていると、効果的に機能することができません。ハデスの門が恐れるほど神の国が広がっていかない原因は、このようなところにあるのではないでしょうか。

ブレないためには教会の本質を理解する必要があると思いますが、よく分かっているつもりで誤解してしまいがちなのが、教会という存在のように思います。よくある誤解を紹介しましょう。

・ 教会とは、建物であるという誤解があります。

「教会に行く」、「教会に集まる」という表現が当たり前になっていることを考えると、私たちの中にこのような認識がどれだけ根深いかということがわかります。

多くのクリスチャンが、自分たちの教会堂を持つために大きな犠牲を払うのも目にします。「自分たちの教会堂を持つ」ことがひとつのステータスにもなっているからです。

でも、そのために多大な借金をして、返済のために教会員を集めるというのでは、目的が変わってしまいます。

また、教会堂という「自分達の場所」を持つことによって一致が起こるのなら良いのですが、実際には縄張り意識から関係が悪くなるという本末転倒の状態になることも少なくありません。

「神さまに会うために教会に来ました」という言葉を耳にすることもあります。教会とは、神さまが臨在する聖なる神殿だという考え方がその背景にありそうです。しかし神さまは、地上の限られた場所に留められるような存在ではありません(参照:1列王記8:27)。

建物としての教会は、優先するべき事柄ではないのです。

・ 教会とは、日曜礼拝であるという誤解があります。

一般的に、日曜礼拝出席者数と教会の規模を同一視する傾向があるように思います。日曜礼拝厳守と教える教会が多いのも、教会で最も大切なのは日曜礼拝だと考えているからだと思います。

礼拝のことについては別のところでもっと詳しくお話ししますが、教会の本質は日曜礼拝ではありません。それを混同すると、いわゆるサンデークリスチャンを生み出すことになってしまいます。

・ 教会とは、組織のことだという誤解もあります。

たくさんのクリスチャンが集まっている所に行くと、「○○派の○○教会に所属しています」という自己紹介がされ、どの教会にも所属していないと怪訝な顔をされたり、場合によっては叱られることすらあります。組織としての教会に属していないのは、クリスチャンとして不完全な状態だと見なされるからです。

聖書の中にも「地域教会」がありましたが、それはその地域の集まりというだけのことです。ある程度の人数になれば組織化した方が良い場合もありますが、少なくとも組織そのものが教会の本質とは言えないのです。

教会堂を持つことも、日曜礼拝をすることも、教会が組織化することも、歴史の中で必要に応じて生み出されてきた方法論やシステムですから、それ自体が間違いというわけではありません。問題なのは、本質ではないそういう部分が絶対的なものとなり、重視されてしまうことです。

環境が変わり、必要が変われば、やり方も変えた方がいいことがたくさんあります。しかし多くのクリスチャンは、「自分にはそれが馴染み深いから」という理由だけで一つの形に固執してしまいます。

形だけを大切に守ろうとすれば、やがてそれは形骸化します。そうならないためには、教会の形ではなく、本質を大切にしていく必要があるのです。逆に言えば、本質さえ守られているなら、どのような形ややり方でも、それは意味のあるものとなります。 教会の本質とは何でしょう?

・ エクレシアと表現される、クリスチャンの集まり

ひとつは、エクレシアと表現される、クリスチャンの集まりです。エクレシアは、「集まり」というような意味のギリシャ語です。この言葉が使われ始めた使徒の働きの時代を見ると、クリスチャンたちの親密な集まりだったことがわかります。

・ 教会は、神の家族とも呼ばれました。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19)」

これは、同じ父(神)を持つ一つの家族だということです。「家族のように生活する共同体を作ろう」という話ではなく、家族として思いやり、愛し合う関係を築くということです。

時々耳にする、「○○教会の一員だから他の教会に行ってはならない」という価値観は、違う教えが入ってこないために、教会形成の課程でできた考え方であって、聖書が教えている神の家族としての教会像からはかけ離れています。神の家族は、「〇〇教会」という単位で完結しているわけではないのです。

教会が形成されていった時代は迫害が始まっていた頃でもありますから、財産を分けあって共同生活をすることもありました。

「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。(使徒の働き4:34-35)」

共同生活は家族としての愛の表現のひとつでしたが、一時的なものでしかありませんでした。それが共同体としての完成形ということではなく、神の家族としての姿はいろいろあり、状況に合わせてその形を変えることができるものなのです。

・ キリストのからだとしての教会もあります

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)。」

この、キリストのからだとして機能することが、教会の役割や機能を考える上で一番大きな手がかりとなり、フォーカスが当てられるべき部分だと思います。教会がキリストのからだであるとは、どういう意味でしょうか?

第一に、イエスさまが私たちの頭だということです。イエスさまを頭として、指示を仰ぎ、私たちはそれに従って行動します。

第二に、私たちは様々な機能を持ったキリストのからだの一部であるということです。私たちは、キリストのからだの一部なので、一人でキリストのからだとして機能できるわけではありません。互いに補い合い、助け合い、共に働くことによって、キリストのからだとして機能することができるのです。

「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(ローマ12:4-5)」

第三に、天に帰って地上からはいなくなってしまったイエスさまの代わりに、私たちがからだとして行動するということです。そのために、私たち一人一人の中に聖霊が内住し、様々な賜物がイエスさまから託されています。

イエスさま一人で動ける範囲は限られていましたが、世界中にいる私たちクリスチャンを通して、この世界に神の国をもたらすための働きができるようになったのです。

こうして、キリストを頭とした(1)体の一部として機能することによって(2)世界に神の国を広げる働きをする(3)のが、キリストのからだとしての教会です。

今までの教会のやり方を一度白紙に戻して、機能を中心にもう一度教会をデザインしなおすとしたら、それはどのような形になるでしょう? 現代の日本で教会を作ることを考えるなら、そのような選択もあるのではないかと思います。オーガニックチャーチとは、そういう発想で生まれる教会です。

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