Go beyond the frame!その1
デフフットサル日本代表は2019/11/4にスイス、ヴィンタートゥールに向かいます。
10/24で全ての準備する過程が終了しました。
僕は2012年度よりスタッフとして関わるようになりました。
長い年月が経ちました。
でも、よくよく考えると、ここまでくるのは一瞬やったなと改めて思います。
それは僕の中で当たり前になって生活していたからだと思います。
ハジマリに感じたことを↓のリンクに書いてますので良ければ読んでください。
2015年タイW杯🇹🇭では7位。
その時にも沢山の山がありました
包み隠さず書いていきます。
この時は今よりも、デフを取り巻く環境は酷く、お金が全くありませんでした。
イランへのアジア予選はそれが原因で帯同を断りました。
日当はでない
交通費も出ない
医療品関連に関しても自分で購入し持ってきてくれ
こんなふざけた条件で2週間近く仕事ほっぽりだしていけるわけがありません。
本ちゃん大会にどうやったら自分は帯同できるかを考えた時【応援してもらう人を作り、お金を集める、そして認知をあげる】それしかありませんでした。そんな沢山のことをやり駆け抜けた2015年までの日々。
あの時本当に沢山の人に助けていただき、W杯へのストーリーをつくっていただきました。
Fリーグ会場でのチャリティブース出展
セレッソ大阪ホームゲームでのチャリティブース出展。
前回W杯後の記事は以下に書いてます。
当時どんな思いだったか読んで思い出しました。
今でも考えてることやその時受けた感情は忘れていません。
良かったら読んでみてください!
世界を見て(2015Deaf futsal World Cup in Thailand)
そして2019/11/4、みんなのジャパンはスイスW杯に挑みます。
2015年からの約4年。
めちゃめちゃいろんなことに取り組み、チームとして山あり谷あり頑張ってきました。
2017年。
フィジカルアップ、練習環境の改善のためにOURVISIONを発足させました。
2015年、世界の壁は、圧倒的にフィジカルの差でした。
日本は細かい技術やスピードなどは引けを取らないんですが、体の強さや、長期間、高いレベルを維持して戦うことが出来ませんでした。
コンディショニングも治療も沢山しましたが、やはりベースの差が最後の数秒や勝ち切るチームの差となり現れてきました。
そこから2年、メンバーが絞られ合宿開催するようになるきっかけの2017年1月より、障がい者競技としてではなく、世界一のフィジカルを作り、監督の思うプレーを出来るベースをしっかり上げようということで、東海林(キャプテン)と二人三脚が始まりました。
最初はみんなに伝えましたが、うまく伝わっていませんでした。
フィジカルは必要ないという考えを持っている選手や、フィジカルすら何か知らない選手、身体を大きくすることによりパフォーマンスが下がると思っている選手、めんどくさがる選手、嘘つく選手など様々な選手がいました。
メンバー絞ったのにそういう選手がいる時点でヤバイと思いました。
時間が経ち、監督にもそれらのコンセプトを理解してもらい、続けて行きました。
春には上井、そして1人、また1人とOURVISIONに参加する選手が増えてきました。
最初はフィジカルベースを大枠で組む目的でやり始めました。
好きなトレーナーさんの元で、ベース基準を作る!
もちろん理解が早くメンタルの強い選手は、自分で僕のいうことをしっかりと腰眈々とやってくれました。
そしてその基準を満たしながら、走れて強い選手を作る!
そんな途方もない目標を掲げ、世界一を掲げ始動しはじめました。
「日本代表基準=世界最高基準」
選手はほぼ東京。
てことで細かいパーソナル指導もできないので、年単位の目標を掲げました。
細かい体幹トレーニングなんてのはまずは後回しにして基礎ベースの構築を目指しました。
日本人は流行り物が大好きです。
その流行り物から目をそらせ、やらないといけないところを擦り込むのが本当に大変でした。
こらはデフだからとかではなく、みんなそうです。
メディアの人たちや雑誌騙すようなことやうまくいうて騙さないでくださいって何度も思いました。笑
本質見抜けよ、お前ら何しにきてるねん!
って何度も伝えました!
今でもブレたりする選手はもちろんいます。
でももう放っておいてます。笑
それでもついてきてくれた選手、もちろん途中でドロップアウトした選手もいた。
めちゃ厳しくして、僕を否定する選手も沢山いました。
でもそんなことはどうでもよくて、目の前の少しのことではなく、改革を起こして全てを底上げする。
それが目的だった。
それが今までこんなに努力して見てもらえる環境にいなくてもがいてたデフの選手たちやデフキッズの夢になればなと思ってました。
革命を起こすことで、未来は変わると信じていました!
もちろん今も信じています。
逆に言えば、代表ってそういうもので競い合い、残れなかった選手たちが応援してくれる存在。
そういう、尊い存在になって欲しかった。
そうやってOURVISIONの第一歩からどんどん大きい輪になっていくのでした。
これが一つ壁を越えた瞬間でした。
次の目標ができ歯車が回り出したのです。
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