子どもから学ぶということ
8.23 - 29の振り返りとして
26日の木曜日、師匠の一人である、永島先生を迎えて、SALASUSUのライフスキルトレーニングを題材に、オンラインにて授業研究、そして授業研究の授業研究を実施した。
※カバー写真にあるように、現場の様子を限定グループのfacebookライブをしてもらいながら、複数箇所をzoomでつなげ画面共有をしながら行った
合計6時間にも渡ったオンラインのセッションは疲れ果てた一方で学びが大きく、今後カンボジア全土でトレーナーを育成していこうとしているSALASUSUにとってプログラムの柱の一つになっていくのではという確信を得た時間であった。
教室で生徒を教えるということは、プロフェッショナルとしての専門性を非常に要求される難しい仕事であり、それを磨いていくには授業研究というものが非常に効果的であるということを体感したためだ。
授業研究の中で持つ問い
やり方は、非常にシンプルに言えば、工房で行っているライフスキルトレーニングをオンライン越しに見学してグループ別、その後全体で協議をした、それだけ。
ただどんな問いを持って教室を観察するか。それが面白くて、「この子どもたちの学ぶ姿から、あなたが学んだことはなんですか」という問い。そして授業が良いとか悪いとかそういう価値判断を一切行わずに好奇心を持って見続ける、という時間にできるように集中した。
学ぶ、シンプルに言えば「今まで知らなかったことで、今知ったこと」がなんなのか、という問いだが、これがなかなかに奥深くて難しい。どうしたって、自分が知っている理論や生徒の情報や、違う立場の自分が自分の中でうるさく騒いでしまい、ただ目の前に起きていることを観察し真摯に学ぶことを邪魔してしまう。
事業家としての自分が邪魔をする
例えばこんなシーンがあった。生徒同士でグループワークをするタイミングで、それぞれのグループにトレーナーも近くに座って話に参加した。そうすると生徒が思わずトレーナーの方ばかりを向いて話をしてしまうのだ。
トレーナーが話を整理してくれたりファシリテーションをしてくれるので、ワークは「うまく」進むんだけど、果たして、「ペアワークになっているのか」ということが僕には疑問だった。
先生が役割を果たしてしまうことで本来起きるべき生徒同士の関係性の進化や学び合いが阻害されているのではないか。
と、そういう事実を僕は今回の観察からみとったので、例えば次の自分の授業では「じゃあペアワークは生徒だけにしてみてトレーナーは近づかないようにしてみよう」と仮説を立てチャレンジをしてみることができる。それが授業研究の成果だ。
一方で、僕がそのグループワークに入っていくトレーナーの姿を見るときに「反応してしまっていた」というのも事実だった。経営者として全国にこの授業を広げていこうと思ったときに、ほとんどの学校では十分な人数のトレーナーを用意することができないし、ましてやトレーナーの質まで揃えるということは不可能である。
その「スケールをしなくてはいけない」というマインドが、今の授業形態(トレーナーがワークの中まで参加するということ)に対して批判的なツッコミを入れてしまっているのでは、ということだ。そのとき、僕は教室や子どもの学びを見ているのではなくて、事業計画を見てしまっているのかもしれない。
学んでいる瞬間を原点にする
授業研究そのものが難しいとはいえ悲観することはない。
先程のジレンマや自分の観察力・客観性への批判的な眼差しも含めて気づきながら手放していけば良いのだ。その上で、もし困った時は「生徒が全員学んでいるかどうか」「学びの密度が十分か」を見ていく。その確かな瞬間に想いを馳せることでさまざまなジレンマや葛藤を乗り越えることができるのではないか。そういうヒントをもらった。
学びが十分かと批判的な目で教室を見てみるときに、まだまだライフスキルトレーニング自体のカリキュラムもトレーナーの実力も改善の余地が本当に大きく道のりは長い、ということをたびたび実感させられることとなる。その一方で、長い道のりだけど、「生徒が学んでいる瞬間」を起点にすることで、乗り越えていけるのではないかと思う。そういうエネルギーや確信をもらえる取り組みでもあるのだ。
授業研究の授業研究
次の時間に行ったのは、授業研究の授業研究。それはつまり、授業研究をする先生同士の関係性を教室と見立てて、それをまた観察し、協議すること。さっきまで授業を観察していた先生たちが授業について振り返って学びを得ていく過程をさらに観察する、ということ。一段階メタ的なレベルである。
ここでは僕はファシリテーションの大事さ、一人一人に本当に寄り添って学びを作っていこうというチームの素晴らしいエネルギー、一方でまだまだ授業中の先生の在り方や生徒の学びへのセンサーは不十分であるという現状を見ることとなった。
その難しさを目の当たりにしたところから、逆説的ではあるが、客観的に人の授業において観察者として授業研究をすることの大事さを学ぶことができた。
当事者性との戦い
僕が勘違いしていたし、もしかしたら多くの人が勘違いしがちなことは「授業研究って、授業した人にフィードバックするためにやるんでしょ?」ということ。
過去の授業研究ではそのようなこともあったそうだけど、現在主流になっている授業研究では、全くスタンスが違うのだ。
授業研究とは参加させてもらい観察させてもらう他の教師が学びの主体であり、ある先生の実践とその生徒との相互関係を鏡としながら、学びをみとる目を養い、自分の実践につなげていく、という目的のために行われる。
授業をした先生は協議そのものには参加しない。ギフトとしてその観察結果や学びを共有してもらうことはするにしても。
これは主に二つのインサイトから来ていることだと思う。
一つは人は感情の生き物であり、どうしても授業をした主体である先生は自分の授業を客観的に見られないため。授業を実施した先生のまでやる協議やフィードバックもお互いによっぽどの関係性と成熟がない限り、「批判」となってしまう。それを避けるために今のような形式に落ち着いている。
もう一つは、どうしゃべるか、どの理論を用いて教室を動かしていくかということよりも、子どもが一人一人学んでいるかどうかに気づくことの方がよっぽど大事である、ということだ。
プロフェッショナルとは見て判断して振り返る生き物
全ての教室、授業は別物である。生徒によって、生徒同士の関係性によって、先生によって、もっと色々なものの些細な環境の変化によって、学びを最も全員に引き起こせるという意味での「最適な授業」は全部違う。
ときに即興的に、ないしは文脈を掴み取りながら、その場で最適と思われるものを自分の教師としての引き出しから選び出して適用していく、その営みが大事なのである。
当然今教室で何が起きているかどうかを見ないで、適用できる万能な理論などはあり得ない。アクティブラーニングだからいいとか、そういうレベルの話ではない。
プロフェッショナルとは現場を曇りなき眼で見とれる人である、といっても良いかもしれない。その上でちょっとずつ毎日チャレンジをし続けた人にだけ訪れる深い充足感が、プロフェッショナルの醍醐味なのではないか。
そういう意味で、「みること」「判断すること」「振り返ること」を繰り返すこと以外でプロフェッショナルとしての改善は起きないし、それを人の舞台を借りて繰り返していくために「授業研究」があるのだろう。
どんな先生でも変化できる
師匠が言っていた言葉が印象的であった。
「どんな下手くそな授業をする先生であっても、30回授業研究に参加すれば絶対に自分の授業が変わる」
という言葉。生徒が学んでいないことを本当に理解し、体感した先生は、真摯さを取り戻し&活用して自分の授業のあり方を変革していく力を手にするのだ。先生がもしずっとつまらない授業をし続けているなら、それは校長だったり学校の環境を作っている僕らの責任でもある、ということだ。
子どもには(トレーナーにも)チャレンジする力があり、学ぶ力がある
繰り返しになるが、授業研究で一番僕が学んだことは、生徒に、トレーナーに期待することをやめない、という覚悟についてかもしれない。
現場でそれを言い続けることがいかに大変なことか。それこそ、僕の想像を絶するような痛みや矛盾と向き合ってくれている現場のトレーナー人を大事にしつつ、それをささえる組織や自分を大事にして進んでいきたい。
改めて貴重な学びのために研究授業を公開してくれたトレーナー陣、授業研究の授業研究を公開してくれた後藤、そして率直な学びを共有してくれた参加者の皆さん、また深い理論的なバックボーンと優しくも厳しいフィードバックをくださった永島先生、貴重な機会をありがとうございました。
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