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人はなぜスポーツが嫌いになるのか(スポーツで苦しむ人へ)

こんにちは!長野県の喬木村(人口6100)で総合型地域スポーツクラブ『たかぎスポーツクラブ』(会員550)のマネジメントをしている、上杉健太(@kenta_u2)です。

今日は、「なぜ人はスポーツを嫌いになるのか」について書いてみたいと思います。

というのも、「スポーツが嫌い」という人は確実に存在していると思うのですが、よく考えたら、「別に好きじゃなくてもいいけど、嫌いにならなくても良くない?」って思うからです。

これはスポーツに限らず、色々なことに言えそうなのですが、もしかしたらスポーツは特にそうかもと思うので、少し考えてみたいと思います。

嫌いになるものってどんなもの?

まず、スポーツはいったん置いておいて、人が何かを嫌いになるプロセスについて想像してみたいと思います。

例えば、私はプールが嫌いでした。高校生くらいまで、プールや水泳が大嫌いでした。

理由は、

・楽しくない。

・水の抵抗や水中で呼吸ができないことが苦しい。

・寒い

この3つです。

これをちょっと分析してみると、嫌いになるものに含まれる要素の一つは、「楽しくない」がありそうです。

しかし、楽しくないもの全てを嫌いになるかというと、そうではない気がします。

例えば私は洗濯をしても楽しくありませんが、別に洗濯は嫌いではありません。

それはたぶん、洗濯に対しては“やる必要性”を理解しているからだと思います。

つまり、「楽しくはないけどやりたい」と思えている。

しかしプール・水泳は、私にはその必要性も必然も自らの内側には見出せなかった。

でも私はプールや水泳を学校でやっていました。

体育で。

つまり、水泳が必修であり、やらないと成績が下がるからやっていたということです。

外的な動機付けによって無理やり自分を納得させてやっていたのです。

どうやら、「嫌いになる」のプロセスにはこれが関わっていそうです。

「楽しい」「嬉しい」「達成感」などの内的な動機ではなく、「お金」「他者からの評価」などの外的な動機によってのみやっている行動。

分かりやすく言うと、“やらされている”“強制されている”と感じているものですね。

(私の考え方としては、「自分の行動は全て自分の意思決定によるもので、やらされているとか強制されているというものは一つもない」ですが、それでも感情的に何かを“やらされている”と感じる人が多くいるのは理解しています)

私は“やらされる水泳”から解放された大学生以降、たまにレジャー的に泳ぐ機会があると、嫌とは思わずに泳ぎました。自由な泳ぎ方で。

「やらなければならない」から解き放たれたら、わざわざ嫌う必要はなくなるのだと思います。

嫌いになる要素のもう一つは、「苦痛」です。

こんなものシンプルに、「苦痛は嫌」で終わりなのですが、特に人が耐えられない苦痛は、「その先にメリットがない」という場合だと思います。

目の前に苦痛があっても、「利益」とか「成長」とか、その先に自分に大きなメリットがあると分かっていれば、人は結構その苦痛を自ら選んだらします。

しかし、それがなければ苦痛はただ単に嫌なもので終わりです。

当然よく分からない苦痛は嫌いになります。

スポーツの“嫌い要素”

多くの日本人がスポーツとか運動を最初に意識するのは体育とか習い事としてのスポーツかと思うと、やはり子ども的には“やらされている”と感じるシーンは多くあるでしょう。

ここにスポーツ嫌いを生み出す大きな要因があるように思います。

スポーツはやらないといけないと考えられている

これがボトルネックです。

そして、『運動をたくさんして運動能力を昔の人と同じくらいにしなければならない』が暗黙的に目標設定されています。

一部の人にとってはスポーツ・運動はやらされているものであり、勝手に運動能力の向上が求められてしまう。その先のメリットはあまり提示されないままに。当然、運動が苦手な人だったら嫌いになると思います。

現在もスポーツ・運動には、よく分からない苦痛を耐えることを求める傾向がある気がします。

それを“頑張り”で乗り越えることを求められて、“よく分からないけど頑張れる人間”が評価されてきた社会だったのだと思います。

ここをいい加減に脱却したいです。

これからのスポーツ

まずは、『スポーツは遊び』という考え方を、社会に完全に定着させることが大切だと、心の奥底からマグマのように煮えたぎらせて富士山から噴火させたいくらいに強く思っています。

特に幼児や子どもの教育にかかわる人や、地域スポーツ界の人が。

「遊び」の原則は、『なくてもいいもの』だと思っています。

スポーツはここにあってほしい。

実際に、スポーツがなくて死ぬ人はいないので、スポーツというのは生物にとってなくてもいいものなのだと思います。

でもやっちゃう

それがスポーツ。

やらなくていいのに、やると楽しい

それがスポーツ。

ていうか、やらなくてもいいものだから楽しいのだと私は思います。

元々なくてもいいのだから、スポーツの試合に勝たなければならないということもありません。

あるのは、「勝たなくてもいいけど勝った方がより楽しいから、勝ちたい」です。

そして、「勝てなくても楽しいから、結局やるけどね。えへ」です。

さらに誤解を恐れずにいうなら、“高い運動能力”はいらないです

あったらあったでいいけどね、くらいです。

「運動が苦手な子を得意に!」とか言い続けると、どうしても苦手な子はたぶんスポーツから逃げ続けなければならないし(その子にとっては得意になるメリットがないから)、相対的な評価としての“運動が苦手”は絶対になくならないわけですから。

「何年前に比べて子どもの体力・運動能力がこれだけ落ちました!」とか言うのはいい加減やめた方がいいと思っています。

分かりやすいので課題として設定したくなるのは分かりますが。。。

「運動が得意じゃないとスポーツは好きにならない」というのはスポーツが得意な人の偏見と思い込みで、苦手でも人は自分が楽しいと思うやり方でやり、好きになる。スポーツに限らず。

これは総合型地域スポーツクラブの多様なスポーツの取り組み方をやっていて実感することです。

“スポーツ嫌いを好きに!”ではなく、

スポーツを嫌う必要がない社会に!”を目指すべきだと、私は思います。

最後にもう一度言わせてください。

スポーツは遊び

どうか遊びで苦しまないで欲しい。

そういったスポーツ文化を変える可能性を、総合型地域スポーツクラブは秘めていると思っています。少なくとも、私が作っている総合型地域スポーツはそこを実現してきています。

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