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レモネードはもういらない

『アラビアのロレンス』を観た時、強烈な違和感を覚えたシーンがあった。

シナイ砂漠を横断しカイロの司令部に辿り着いたロレンスが、従者のファラージを連れて将校しか出入りの許されないクラブでレモネードを頼むシーンだ。ロレンスは、レモネードを2つ出せ、と頼む。マゾヒストであり、砂漠の何もなさ、清潔さに魅せられたロレンスが、レモネードで喉の乾きを潤す快感を忘れていないことに違和感を感じた。その違和感が、意図的な演出であることを本書を読むことで理解出来た。

『砂漠と異人たち』は、一読では整理が出来ない程多様な読み方が可能だ。
第一部は、前著『遅いインターネット』と同様に、コロナ禍以降の状況を踏まえた状況整理から始まる。やや饒舌な気もするモノローグで締まるが、おそらく「自分の物語(身体)」の演出とも読み取れる。(それは第二部の途中で気づく)
第二部では、みんな大好き(?)『水曜日は働かない』の相方T氏の登場である。T氏の強烈な個性を紹介するにあたって、T氏の”自分語り”(モノローグ)という、やはりここでも妙に饒舌なキャラ設定を付与してくる。そしてその「違和感」は、レモネードを口にした瞬間”欺瞞”として現れる。(第二部の締めは、この段階で対幻想に閉じた「他人の物語(身体)」を棄却しておく必要があったからと読むことが出来るし、Informationに対する「ワクチン」とも読み取れる(避難訓練は本気でやらなければ意味がない)。おそらくその両方であるだろうから”欺瞞”は必要不可欠だったのだ)

さて、読後に『アラビアのロレンス』の例のシーンをあらためてアマプラで観なおしてみた。

*「帰ってくれ 出て行け」

     「大きなコップにレモネードを2杯だ」

     *「将校専用だぞ」

             「構わん 同じ人間だ」

改めて観なおしてみると、このシーンが丁度劇中の「中間地点」である125分(!) に配置されていることから、意図的な演出であることが理解出来る。
つまり、レモネードとはマゾヒズムの報酬を象徴している。翻って、本書ではコリン・ウィルソンの見解を用いることで「もう一人の」ロレンスが、圧倒的に瑞々しく美しい感性で砂漠そのものを享受している様子が窺える。そこに欺瞞の入る余地はない。(ここに第三の身体としての「砂漠」(人智を超越した存在)を確認できるが、ロレンス"が"人間である以上その全てを享受することは出来ない… )
そして、コリン・ウィルソンの見解に著者ならではの身体(主体)論を並走させることで「ロレンスの子供達」に件のメッセージを送る。

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