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「見た目」の話

こんばんにゃ(古き良き死語)。

おいら週1回投稿するんだ!とか息巻いて始めたものの、気付いたらもう初回より2週間が経過しており、戦慄を覚えます。
年齢を重ねるにつれ時が経つのが早く感じるとは言いますが、ついに時を先取り始めたのか早くも5月病をゲットしたようで、何だかあまりやる気が湧いてこないというか、どうも呆けがひどい今日この頃です。

とはいえ家に引き籠っていても気分は上がりませんから、気分転換でもしようと海に行ってまいりました。

海、非常に好きなんですよね。

出発の前々日に見た天気予報では快晴かつ気温もぐっと上がるとのことでしたので、一面に広がる青空の中、波の音に耳を澄ませて都会の喧騒を忘れようじゃないかと、茨城は波崎海岸まで意気揚々と出かけてまいりました。

ご覧ください、この見事な曇天。
強風による砂嵐with小雨の降りしきる中、体感気温は10℃といったところでしょうか。風邪ひきました。
私の心模様は、ついに空模様にまで影響を及ぼす程の力を有したのだと思い自尊心を保っていきたいところです。

ところで、私はカメラに向かっておちょけるのは得意なんですが、澄ました顔というものがどうにも苦手です。キメるということも状況によっては必要だと思うのですが、演技と同じでそれを顔の表情だけで作ろうとすると失敗しますよね。
分かってはいても、波崎の強風の如く暴れ回る自意識が邪魔をするのでしょう。凪のような静かな男になりたいものです。

そんなところで今回は「人の見た目」についての所感です。


近年では"ルッキズム"という言葉をよく耳にします。和訳すると外見至上主義ですか。ざっくり言うと外見を基に差別・侮蔑・蔑視の対象にする事ですね。いけないですね。

で、ここで言う"いけない行為"とは、そもそも何に基づいてようが関係なく「差別・侮蔑・蔑視」を指すのだと私は考えているのですが、どうもルッキズムが語られる多くの場合に「外見を基に何かを判断する」こと自体が"いけない行為"の内に含まれてしまっている感じがして、個人的には何とも腑に落ちないことが多い今日この頃です。
それは『理不尽な理由で人間を不当に扱う』という人々の間で起こる普遍的な問題が、『人を見た目で判断するのはいけないことだ』という風潮として個人の暗黙のルール化に収束してしまっているように映るからでしょうか。

たとえば個人間で信頼関係を築けていないのに、外見に言及するのはお下劣でしょうが、それはあくまでマナーの問題であってルールの問題ではないように思えます。
マナー違反と咎められるのは『他者への不躾な発言』であり、『人を見た目で判断する』こと自体ではない気がするのです。
というか、そこに議論が帰結してしまうと解決からかえって遠ざかる気さえします。

確かに『人を見た目で判断する』というのは、あまり印象の良いフレーズではありません。
(そう、子供の頃に好きな子の見た目と中身どっちを重視するかみたいな話題に、食い気味で見た目と即答した私に友達が出来なかったようにです)
しかし視覚に限らず、聴覚や嗅覚、味覚なども含めて自分の身体感覚で"何かを判断すること"は、個人が持っている、アプローチやリスク回避に役立つ能力の1つであります。
なぜ「人を見た目で判断する」ことに反射的な不快感を覚えるのでしょう。


私は、人の見た目というものは2つに分けられると常々思っています。
ひとつは『顔のつくり』『体のつくり』、
もうひとつは『顔つき』『体つき』です。

ここで言う『つくり』は先天的なもので、基本的には変えられません。もし『つくり』に着眼して善悪や優劣を判断するならば、確かにそこには侮蔑的な匂いがするように思えます。

ところで『つき』は日々変わっていきます。その人の経験や性格や生活がもろに反映されるのが『つき』だと私は捉えているもので、『つき』に着眼することはかなり重要な行為だと思いますし、そこにポイントを置くならば、人の見た目と中身に大した差異は無いと言っても過言ではないと考えています。

勿論『つき』を見極めることだって結局は主観でしかないんですけれども、その識別眼でしくじることがあればそれは本人の責任ですから、それはそれで別にいいんじゃないかと思います。
むしろ『つくり』の美的感覚を一般化して、それを客観的事実に仕立て上げる雰囲気が問題の元な気がしますし、更に言えば、それに対してやれ「多様性」だの「オリジナリティ」だのと便利な囲いで対抗する様子も、また別の全体主義を生み出しているだけな気がします。

少し前に、ミスコンが時代錯誤的みたいな話題がありましが、言わずもがな大事なのは当人の意思であって、そこを置き去りに「人は見た目じゃない」と外野が声を上げることに対しては、呼ばれてない合コンに参加して王様ゲーム始める位の場違い感を抱きますし、「あえて顔を隠して出場する」といった対応策に対しても、足ぶつけた痛みを和らげる為に頭ぶつけるみたいな元も子もなさを感じるのは、私が5月病のキング・オブ・ひねくれ男だからでしょうか。そんな気もしてまいりました。

最近は、色々な話題において『主語の拡大やすり換え』を目にすることが多く(単にそれを可視化するメディアが増えただけかもしれませんが)、本来は個人が負うべき意思決定や自己判断における、責任(自由)を有耶無耶にする、事なかれ主義を感じることが多いと言いますか、個を大事にしようという風向きが個を攫っているようにも見えたりラジバンダリ(古き良き死語)。

見た目において、『つき』に比べれば『つくり』というのはあって無いようなもんで、それでいて『つき』に重きを置くなら、それを見定める眼は自己責任で個人が育んだらええがな、というお気持ちな日々なのでした。


さて、ここは鳥貴族ではありませんので、普段のように言葉が荒ぶらないよう注意を払ったつもりではありますが、この手の話題って炎上するイメージですので、早2回目の投稿で火柱が上がったりするんでしょうか。まだ殆ど誰にも読まれていないので読者数からしたら焚き火の如し。夜は冷えるのでほんのりと暖まりたいところです。

最後に、俳優・大久保鷹さんの講義の記録を配布した電子ブックから抜粋した文章をお口直しに載せておきます。
大久保鷹さんは唐十郎さん率いる状況劇場に在籍しておりました。
唐十郎さんの云うところの『特権的肉体』という言葉の強さからか、役者陣が「異形」と評されるのを様々なところで今まで目にしたり耳にしたりしましたが(白塗り!裸!顔芸!まさに特権的肉体~!みたいなトンデモ論をどっかで聞いた時は流石にドン引きましたが)、果たして「異形」とは何なんでしょう。

異形ってのは情念っていうふうにぼくは捉えてるんです。片足がないびっこの奴が異形かって言えば決してそうじゃないですよね。無くなった、失った脚を探すのが異形なんですよ。片足がないのが異形じゃなくて。

横浜都市文化ラボ 連続講義「俳優・大久保鷹という生き方」より

格好がつきますねえ。

私の未だ甘い顔つきも、いずれ情念が染み出すものとなるよう努めたい所存です。

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